外界はいつも騒がしい
何もかも自由であるにも関わらず、私はどこか、逃げたいといつも思っている。何から?現実から?―わからない。けれども眠っている時以外は、ふとどこかへ行きたい衝動に駆られる。いや、インドア派だからどこへも外出したくはないんだけども。あまりに退屈、とも思ってないんだよな本当は。現に一日なんてあっという間、また今日も何もできんかったワ、なんて思っている。ぎゅーっと息が詰まっているわけじゃないから溜め息は出ない。いつでも出る大きな欠伸と瞬間的に繰り返す眠気、それからふと口をついて出る「あ~逃げたいな~」は「ああ消えたいなぁ」の代わり。
常に音楽のある環境で生きてきたけども、最近無音(あえてかけず)で作業したりして意外と捗ることを知った。寝る前はピアノとかASMRとか聴いてたけれどそれも無しで、家の前の川と運送トラックの通る音とかで、案外落ち着けるものだなぁと。田舎特有の静けさかもね、ありがたやありがたや。視覚からの刺激にやられることは度々あるけど、心地よいと思って聴いてるものも“刺激”には違いないのかも。たまに耳栓するという手もあるね。私は都会の喧騒が無理だと思う。アトラクションとしてはいけるか。ライブの爆音もエキサイティングだけどストレスは大いにある。自分はお喋りでうるさいのに、人がワーワー言うのは苦手。わがままでごめんなさーい。
泣いて泣いて涙活して、枯れることはあるのかしら。結構涙腺弱くって、テレビ観ながら度々泣いちゃうし、欠伸しただけでも涙は出るし、夢の中で怒ってて泣きながら目覚めたこともある。これだと感動しいとか感受性豊かみたいに言われがちなんだけど、実際はすごい冷めてるとこあると思うんだよね。興味が薄いというか。グッときたのにあっさり忘れてしまう感じ。泣く規定量オーバーして気持ちがスッと引いちゃうのかなって考えてたけど、ちょっとしたらまたすぐにうるうる来ちゃう。なんでやねん。まだ枯れてはないらしい。(ちなみに特に涙活していませんよー)
人の不幸話聞いてもモヤモヤするし、幸福話聞いてもイライラするし、一体どうせえっちゅーねん私!っていうときあるんだけど。それってそもそも他人様の人生話聞かない方がいいよーってことなのかな。自己と他人の境界が曖昧になりかけてるということだったら良くないよなぁと思って。振り回されてるって感覚はないんだけども、社会で他人と生きているのに、誰しもを敵と認識し始めてるみたいで自分でも少し怖い。あんまりヤキモキとかハラハラとかしたくないんだよね。でもちょっとだけ欲しくなる時もあって覗いちゃう。結果、ぐったり。人には幸せになってほしいと願っているのに、あまりに光り輝くともう見てられないの。距離とりたくなっちゃう。本当に、人間に関わるのって難しいね。蛇を首に巻くより、他人の人生と上手に関わる方が、だいぶ怖いわ。
ひきこもりもひとりぼっちも、底辺とか言ったり言われたりするけど、私は別世界だと思っているんだよ。何もかもをヒエラルキーにまとめなくていいと思う。別に上とか下とかないんだけど、普通の社会、一般的という環境、そこに暮らす人々や出来事を、外界って言ったりするんだけどさ。感覚としての、こっちが内、あっちが外。外界は空気が違う、時間の流れが違う、生きている人間ももしかしたら違う のかも。どっちが良い悪いでもなくて、どっちが正しい間違いとかでもなくて。異なりを違和とかズレとかいって修正されたくないな。ただ“それ”なだけ、だもん。例え何かの底辺にいたとしても、見上げても外界は見えないよ。そこにないから。違う次元にいるかもだから。