百面相ほどではない
私はやっぱり天邪鬼なんだろうか。相手にあっさりされるとこっち見てもらおうと頑張ってしまうし、相手から熱意が伝わるとなんとなくドライに接してしまう。自分でもよくわかってないのに「適切な距離があるだろう」と探るのに必死なんだよね。自分を守るためには、冷たい相手にすり寄る必要はないし、“冷静になるための時間”が与えられたと思えばいい。自分を甘やかしても大丈夫なんだから、愛されたらベッタリ甘え返して、豊かさを感じればいい。わかっていてできないことが、この世には多すぎるぐらいだ。
対する人によって全然態度や雰囲気が違うってこと、自覚がある。当たり前のことだろうけどあからさまだなぁと苦笑いする部分もあるし、自分の思う自分と他人から見た自分に乖離があることは重々わかっていて、その上で一遍実際にどう思うかひとりひとりに聞いてみたいし分析してみたい。家族、恋人、仕事場と別人のように振る舞えちゃうのは、個性や、それこそ“適切な距離感”として認めてもらえるだろう。(別に一貫しているのが正しいとも限らないしね。)もっといえば、家族の中でも親等違いで変わってるかもしれないし、歴代恋人に対してはそれぞれにバラッバラな“私”だったと思う。思い返しても、自分のことなのに「この人本当に同一人物?」ってくらい違う感じだ。(以前書いた“カテゴリーや肩書きじゃなく個人個人で考えてる”ってのがここにも出てきてるのか...)すんげぇ強気で偉そうな自分とか、怯えて毎日泣いてる自分とか。もちろんそれは相手の存在によって大いに振り回されてるわけで、“ここでアイデンティティの欠落を疑う”とも言える。
対極ばっかり拾ってしまう天邪鬼な態度で、いい結果を得られたことは、恐らくない。だから、“適切な距離感”“ちょうどいい所”がほしいんだけど、いざとなったら全く狙えない。その試行錯誤を全ての人ひとりひとりにやってきているとしたら...私、相当面倒なことやって勝手に疲れてるのでは?無意識だけど、ため息だわ。相手に合わせて変幻自在、それで自由を謳歌し心地よさを追求し愉快に暮らせてきた、ならいいけれど。何故か苦しい方しんどい方へ向かおうとするし、辛い=努力と思っていたり、ドМでもないのに困難に立ち向かってこそ快楽は得られるみたいな思考...今考えると「気付け!」って感じなんだけど、きっとその性質みたいなものは今も変わってなくて、だから少し恐ろしいな。“この天邪鬼”は私を幸せにする“スキル”なのか?果たして。
私のいないところに“私”が立ってほしくないから、先入観もほしくないしミステリアスでいたい。どんな態度や雰囲気でいても、私の思う“私”と違っていても、“自分は自分”だからそこを違えてほしくない。どう思われても別にいいけど、でも本音はまぁ嫌われたくはないなぁ、悪印象はやだなぁ、なんて思うのはワガママかなぁ。「君はこういう人だと思う」って言われて「んじゃあそれでいいよ」って返すのはさ、自分でも自分のこと“こういうの!”ってのが明確に定まってないからだと思うよ。今の今までを思い返して、全部自分だけど全部別人みたいに感じているもんね。バージョン違いというより型ごと違う感覚だ。