100点とりたくなりたくない
こないだ、たまたま見かけたIQテスト?をやってみたら(結構問題数多かった...疲れた...)結果144で上位2%ぐらいって書かれててわーいってなった。練習したら150とかにいけるのかしら?まぁだからといって何の役に立つでもないけど。そういう系統?傾向?の問題が好きなんだと思う、私。算数も数学も苦手だけどさ、法則を理解したときの快感物質は、意外にもちゃんと出てるんだと思う。小学校入学の時にもたぶんこういうテスト解かされてて、問題とかは忘れたけど、今でもその時の雰囲気だけは思い出す。人生このかた解答に尽く自信が持てない勢だから、正解しても満点とっても手応えとか実感とかなかった日々だけど、人に褒められるのは嬉しかったなぁ。むしろそれが指針だった。今回のもできたできた~というよりは、上位ですよと言われてやったぁという感じ。比べられること自体を好いてはいないけれど、誰とというわけではないし、参考資料から導かれた評価には、少しくらい喜んでいいよね。結果が何になるということはないけれど。
「いいよ」と言われると安心する。人の目を気にしていないようで気にしていたんだろうなぁ。順位とか得点とか数字で表される評価の方が明確でわかりやすいのに、誰かによかったとかよくないとか言われることの方が重要だった。例えどんなに平均以上の位置にいても、そこに立つことが、またそこに立つ私そのものが“良いか良くないか”“可か不可か”、それだけが気になっていた。その判断はそれぞれの主観でしかないこともわかっていて、“ご意見”は私の感覚によって結局選別されてしまうけれども。競争心が全くないわけではない。勝負事だって悪くないと思っている。競うこと、実感性や客観性のために数値化することに賛同もする。1位とか金賞とか、やっぱり嬉しいものだ。しかしながら私の心を陽にも陰にも揺り動かすのは、数値より感覚なのだろう。「〇点は高い得点です(高いのは良いことです)」と言われるより「偉い。よかったね。おめでとう。」って言われたいんだ。例え0点でも、好きな人が「よかったよ」と言ってくれたら、私の中でそれは“よかった”結果になる。20点とか順位圏外とかよりも、「嫌な気持ちになった」とか「傷つく内容で良くなかった」とか「間違っている」とか言われる方が断然悲しいもん。
他人の感覚だけに“自分自身”を委ねすぎるのも良くないとは思うけどさ。誰がどう思おうと、1位は1位だし50点は50点だし100個は100個だ。ズルいとか惜しいとかヤバいとか、そういう感情抜きの価値は当然ある。矛盾しているかもしれないけど「私にとっての1番」みたいな言い方もする。それでも自分に対しての評価は、数字の向こうに感覚で与えられるのを望んでしまう。許しを求めてしまう。数値化できないところにも、私の切れ端は存在しうると思いたい。