誰を守りたい?それとも救われたい?1
数年前、とある成人男性芸能人と未成年女性芸能人のトラブルについて、SNSでつらつら持論を吐いたことがある。最近その内容を顧みて心境の変化があった。というか反省・訂正したい気持ちになった。そして解放されたい気持ちにも。ジェンダーや人間社会について、考える機会が昔より増えたから、ということかもしれない。
加害者と被害者がいて、当然責められるべきは加害者なのだが、内容によっては「被害者にも多少なりとも落ち度が」という風潮があり、私はその一部に賛同していた。実際には、大なり小なり事実として“落ち度”とやらが存在する場合も、本当に全く無い場合も、ある。それらは個々の事例によって異なる。例えば、最大限の予防線・警戒心・あらゆる無駄を省いた必要最低限の人間関係に努めるならば、落ち度0%に限りなく近づけるかもしれない。そこまでやってても“ほぼ”、まして人間なら完全無欠ともいかず油断もあるだろう、ということで「100対0ではない。被害側にもなんらかの落ち度は(きっと)ある(はずだ)」という意見は成立していた。...ように見えていた。少なくともあの事件に関しては、私もそういう印象を受けていたのだ。「どれもこれも一理ある」と思いながら人々の議論を見ていた。それでいて持論を展開したときは、あくまで私は被害者の味方のつもりで発していた。
無条件で加害者が断然悪い!とはいいつつも、被害者側(当事者、そしてこの先被害者になり得る全ての人)に“自衛”を願った。自衛の定義も人それぞれだと思うのだが、私は個人的に(彼女らを年代的にかわいく思うあまり)「もっと自分を大事にして」「誰かに守ってもらうんじゃない、自分を守れるのは自分よ」という思いから、“自己防衛して”と願った。実際、私の呟きなんてネットの海の砂粒以下だし、当事者に届くことはないのだけれど、その頃のプライベートな心情も相俟って、妙にシスターフッドを感じての発言だった。
しかし。今になって思えば、それが正しい“鐘の鳴らし方”だったのかはわからない。結果的に被害者となってしまった人を、さらに傷つける意見ではないか。既に自分を責めている子に追い打ちをかけるような言い方ではないか。当時の自分の解釈に不安を覚えた。もし、「あなたの為を思って」なんて言いながら“味方”を名乗り、その前提で“落ち度を自覚”させ、指摘して扇動しているのだとしたら、なんて質が悪い。そうでなくても、“幸せであれ”と願ったことが、相手にとっては筋違いの望み、善意の凶器なのかもしれない。本人に届いていないのだからいいではないか、という問題ではない。私の意識の問題だ。あの頃から今、私の何かが変化しているんだと気づいた。
(つづく)