こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

曖昧模糊

夜に閃いたことを、明くる日に実行できない。起きられないし、“それ以外”のことに追われて手つかずのまま忘れ去られる。「今年はもういいや...」と呟いて思考停止すれば、安心して目覚められるかというとそうもいかない。“何も起きない”ことは充分わかっているのに、それでもまだ朝が怖いのか、夢を延長した後の“一日”はかなり短い。

許してもらえている環境がある。見ないふりは全方向で解決にはならないけれど、一時の安心感を得られる。朝が夜になっていくのにも、お腹が空くことにも眠くなることにも、抗えない。でも、気持ちがついていかないってのはあって、飲み込んで喉元過ぎるまでの不愉快とか寝落ちしたのに悪夢で中途覚醒とか、時々、自分がバラバラになっていく感じがする。それらを“通常運転”として処理できるのは、また処理してもらえるのは、間違いなく恵まれている環境だ。「ここから幾ばくもない」と「ここからは無限」は同時に語られる、とは以前も言ったことあるかもしれないけれど、“慣れ”が“健全”であるとは、誰も信じちゃいない。「ドウシヨウモナイ」が「ドウニカセネバ」に、なんてそりゃあ大変身だ。簡単じゃない。それなのに、現状の甘やかしは微かな期待を含んでいる。平穏を望んで、一発逆転も望んで、いいとこどりしたいんだね。他人も、私も、だよ。

はっきりしたことが何も言えないのは、はっきりした自分の形がないからだ。他人に名乗る明確な意思もないし、胸を張れる肩書きもない、実績や過去の記憶も薄く、“自分”であることの能動性を失っている。「今日こんなことがありまして...」と説明のような状況報告も言えないのは、本当に“こんなこと”に該当することが無いに等しいからだ。いや、細かく言えばあるのかもしれないよ?でもそんなの誰も興味ないでしょう。自分が幼少時の両親以外は。そんな優しい両親さえ、今は目新しい報告を待ち望んでる。何もないけど。何も聞かせられないでごめんだけど。

「私は何者なのでしょう」なんて溢した日には、「何それ思春期?」なんて嘲笑される界隈。それに“浸る”のも“溺れる”のも阿呆らしい。「ロボットになるのも一興」と言えば「舐めてんのか」と狩りに来られる。無邪気でいるのより、無邪気でい続ける方が技術いるよねぇ。「明日、仕事します」「はい、わかりました」の単純な会話が、一生適用されない気がして少し哀しい。「今日は○○を食べました」で認められる存在は、“何か”を下支えに成り立つもんだよ。それを発言する前に“まず、これがあり...”と説明できるような土台を持つ人だけが持ちうる価値。基本がなってない、とでも言いましょうか、軸が揺らぐ...なんて言う人もいるけど、軸なんてないないと冗談半分に聴こえるように、本気七割くらいで言っている。

 

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