私を突っつく
またあの時期が来てる。断続的に廻ってくるあの衝動。全てをやめたくなるような、何もかも燃やしてしまいたくなるような、自分で自分を縛るような気持ち。「現状が嫌なら何か変えてみたら」と宥める声が聞こえる一方、動き始めを厭う私は年がら年中反抗期みたいな態度だ。「誰にも何の迷惑もかけないんだからいっそ大胆により一層ワガママにやってみたら(むしろ現状の方が迷惑な可能性あるし自分勝手だよ)」と対峙するのはいつも他人じゃなくて自分だ。私は私の望みさえも、よくわかっていない。
Twitterでの“言葉集め”も他SNSでの“素敵な画像集め”も最近めっきりしなくなった。昔に比べて、探したり感性を震わせたりする気力がないのだ。キュレーションアプリから通知が来ても、全然中身読んでない。だから最新の情報にはとても疎くなってると思うのだけど、それでも積極的に見る気になれない。(もうアプリ消したらって話) 要らないものをどんどん省いて、外側の世界と触れ合わなくなったら、もうこの世に未練なんてなくなってしまいそう。
「どうしてこんなにやる気がないんだろう」というと、優しい人でも待ちくたびれて、「やる気が出なくてもやるんだよ」と言ってくる。でも私が言っているのは連続性のある意欲の継続ではなく、瞬発力のようなもののことだ。発奮というか、重い腰を上げる“よいしょっ”のような勢いというか。やり始めたら案外続けられてしまう経験があるからこそ、最初の一歩がより重要だと持ち上げられていることに自分でも気付いている。
もはややりたいことや向いてることを吟味している時間ではない。それでも、細かな違和感や不快感が、私を立ち止まらせ、その場に縛っている。「私が一言やると言えば、それで世界は開ける」なんて、優しい脅しみたいなのは聞き飽きた。頑固なのとはまた違う、ただ“時が来てない”状態が、延々と続いている。「待っててもそれはやってこない」と有名な人が言った。その通りだと思うけれど、私にとっての“それ”が何なのかさえわかっていないのに、“それ”を自ら迎えに行けるだろうか。「やれることやってく」と同じ人が言ってたけど、探し続ける“ため”のやれることってのも、一体何だろうか。
リアルの生活については、特に公言して話すこともないが、オンライン界隈についてはまたちょっと考える。私、自分の年齢をとっさに言えないくらい現実世界から浮きつつあるけど、ネット上でもちゃんと息できてるかどうかは正直わからない。どんな人にも、ひとつくらい居場所があるというけれど、そこに居られるのは運次第とかまたは努力次第とか、安心ってほんとはないのかなと思っちゃうよ。安心・平穏は刺激が無くて成長が止まるっていうもんね。己の世界を維持するための無意識の仕組みなのかなぁ。