It's up to me.
たくさんの物を所有している。“高級”と付きそうなものはないけれど、それでも衣食住+αで贅沢ともいえる。心を無にしたり、センサーを働かせることもできず、断捨離もなかなか捗らない。なかなか手放せないこの状態はもしかして、と考えた。
こうやって持て余すほど多くの物を自分が“所有”しているつもりで、実は物に“支配されている”のではないか。自分が物たちをあれこれ惑いながらもひとつひとつ取り扱っているようで、物自体に、物がそこに“在る”ということに、自分自身が支配されているのでは...。部屋一室、一区画あって、そこに何を置くか、何を所有するかを考えるのではなく、物ありきでその収納場所を考える。物が溢れて部屋が狭いなら、物を減らせばいいのだけど、それができないから自分の方が狭い空間に慣れようとする。雑然さに自分を納得させる。物自体に(そこに留まろうという)意思はなく、私次第でどうとでもなることなのに、環境を変える努力をするより「気の持ちようだ」と誤魔化すことに甘えている。これがまさしく、「振り回されている」という状態ではないだろうか。私が物をうまくコントロールできずに、物に、私自身の気持ちや生活や行動をコントロールされている。
これまでも何度も思った。あるものを無くすこと、私が決めていいことなのに、「これがあるから“すっきり”しないなぁ」とか「これのせいで整理整頓にならないなぁ」とか、“在る前提”でどうにかしようとしている。それ本当に必要なの?ってなると「うーん...うーん?」という感じ。いつのまにか、手放す選択肢は霞んでる。あるものに対して、“住所”や“価値”を考え始めると、思ってた以上に時間を費やす。ところが、それ自体がなくなれば(もちろん離=寂しい気持ちもあるけれど)、それについて考えるのに割いていた時間が浮くだろう。少しがんばれば、時間にも気持ちにも余裕が出てくるかもしれない。そうかもしれない、きっとそうだと、思っているのになかなかどうして、切り替えるのは難しい。私の取捨選択は、リアリティをおいてけぼりにしがちだ。どうしても「なんとなく」が優先順位の上位に来てしまう。「なくても困らないけどあっても困らないしね」と、誰に言い訳してんだか、と思うような独り言が増えていく。
長年同じような言い回しで“満足しない理由”を説明してる気がして悔しいが、周囲や環境を変えたいならまず自分を変える、というのは、断捨離でも他のことでもきっと通用するのだろう。「ああ、今年もまた自分を甘やかした」と思うのは、まぁ今世生きてるからであって、次のターニングポイントを新たに設けるのも、また自分なんだなと他人事のように自覚を促すとしよう。