こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

「すてき、って」

架空の人物のように生きたいと思ったことはあるだろうか。私はある。一番に思い浮かべるのは『落下する夕方』(江國香織 著)の「華子」だ。初めて読んだ時から繰り返し読んだ後の最近まで、度々、何度も、思った。あんな風に生きて終わりたい、と。憧れなんていうのもなんだか気が引けるし、人からは心配されそうだから誰にも言ってこなかったけれど。とにかく、初見の私にはその“わからなさ”が魅力的に感じていたし、今も、少しわかりやすく言うとその“儚さ”が、気候のような自然物のような感じで“美しい”と感じている。まぁなれないんだけど。目指しているわけでもないし。ただ、始まりから終わりまで、もしくはそのもっと先まで、知ることができる、もしくは疑似体験(想像)できるのが、架空の人物を“思う”良い所であって、私には他にも何人か、それも部分部分で、「いいな」と思う人生(物語)がある。

芸能人を理想に掲げることはそんなに否定されないのに、ファンタジー―例えば2次元とか架空の人物とかキャラクターに憧れたり模したり目標とすることは、どうして時に馬鹿にされたりするんだろう。中二病とか黒歴史って言い方も、本人がそう認知しているのはいいとして、周りから「子供っぽい」とか「未成熟・未発達」とか「劣ってる」と扱われる事象、私はあんまり好きじゃない。現実逃避と言われればそうかもしれないが、これはNG、これらと違う方法での逃避ならOK、とは一体どういうこと、と思う。何かになりきって、例えば魔法使いになりたくて実際なれていなくても、それを願い続けることで生き永らえてるならいいじゃない。現実にぶち当たって、手を伸ばしたい憧れもなくて、自らを失うよりは。

あんな人になりたいとぼんやり浮かべることも、「君になりたいよー」と目の前の猫を抱きしめることも、無機物になりたいと心の存在を拒否することも、ある。その時、私は私でしかないんだと、まざまざと思い知らされる。想像の中に、今の私の延長線上である姿はひとつもないからだ。一時的な延命だと、頭の隅でわかってはいるけど、非現実を妄想している時間は、傷つきもせず、取り乱したりもせずに、現実の時間を潰せている。だから悪いこととは言えない。ただ生きているだけならそれもアリと、大概の人は一旦認めてくれるだろう。ただ生きてるだけなら、ね。

ゲームのように、リセットしてライフが元通り、なんてことを現実に望むほどわがままじゃない。それにそこには美しさが少し欠ける、気もする。本を閉じてしまえば終了する物語に飛び込むことを望んでもいない。ただ、始まり方終わり方を通しで知ることができるのは、やっぱりいいなと思う。これからも私は「華子」をたびたび思い出すだろうし、もし“そのように生きた”と誰かがいつか私を重ねてくれたならば、ああ「なれた」んだと感じて、少し満足感を得るのかもしれない。

 

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