こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

ブラックホールな友達なんていない

唐突に、「全てをぶちまけたい」という気持ちになる。図り切れないタイミングでそれはやってくる。自分自身、そんなに鬱憤が溜まっているとも思っていないのだが。「人は誰しもひとつやふたつ、秘密を抱えているものだ」と本気で思う。それは時に孤独で、ずっと秘めたままじゃ苦しいから、誰かに聞いてほしいと思ったり、そのように行動してしまう気持ちもわかる。そうと決めて実際、100%ぶちまけられる人間がいるとは思えないが、満足するまで、気が楽になるまで、とりあえず何もかも吐き出したいという思いは、実行率・結果は様々でも、わりと皆持っているものかしら。

別にアドバイスもいらないし、何だったら感想も相槌もいらない、ただ話を聞いてほしいって時がある。吐き出した瞬間に、誰かがそれを受け取った瞬間に、それは“私の中だけに在る話”ではなくなるから。私がそう考えたという事実が、明確化するから。けれどそれはワガママでもある。勢いだけでとった行動は、私にも、聞いた相手にも、“おもしろい展開”・“良い結果”をもたらすことはあまりない。

「どうして友達いないの」と訊かれた。そんなの自分でもわからないのだけど、ひとつはっきりしているのは“私”に原因があるのでしょう、というところ。ざっくりした“性格”とか“価値観”なのか、現状取り巻く・あるいはこの先求める“環境”なのか、“全て”と言ってしまうと説明を放棄しているようでなんだから、私を構成するどこかに、原因がきっとあるのだろう。どんなに人付き合いが苦手だろうとも、人と関わらずに生きることは難しい。まして友達や恋人、生まれた場所とも限らない家族という関係性だって、奇跡的に、偶々、授かるものだから、奇跡が起こらなければ、自分で運命を感じなければ、それらが“無い”というのも、別に不思議じゃないのかも。

“友達付き合い”は無いけど、友達だとは“思っている”、つまりそういうこと。交流が目的ではなく、思いを馳せる、ただそれだけだ。必要に迫られているから、相手のことを思った言動を心がけるけど、“できているか”はわからないし、“ごっこ”的だと言われればそれまでだ。「友達だったらこれくらいはするでしょう」「相手の嫌がることはしない、友達の基本でしょう」私にはそれらの線引きがよくわからない。自分が嫌なことを他人にしないのは“当然の顔した無難”と捉えているけど、ただの人間同士ってことじゃない、「友達だからこそのgive&take」が、どこまでのものを言っているのか、年々わからなくなった。

思いをぶちまける、相談する、打ち明ける、愚痴る、共感する...相手としての友達や仲間や知り合いを求めてしまうことについて、なんだか私はまだ違和感を拭い去れない。そうしたいのはあくまで私の欲求だから、「友達なんだ~」と決めてつけてるのは私の方だから、相手を巻き込むなんてちょっと勝手すぎない?なんて。まぁその全てが“取越苦労”“気負い過ぎ”って笑われたりするんだけどね。私はあんま笑えないけど。

 

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