あぶくとしずく

勝手な言い分。

さらさら本心

頻繁に、身も蓋もないこと言っちゃいそうで、少し迷ってやめることが多いのだけど、本心で語る相手でさえ、怯んでしまっている。思いやりや遠慮ではない。わりと本音で生きてきたし、それが長所だと言ってくれる居場所もあったけど、それのみで生きられる世間はない(に等しい)。社会に適合しようと委ねた結果、正直にいられなくても息をし続けることはできている。せめて、気のおけない人にはいつも素直でありたいと思うけれど、結局妄想が過ぎて、許されない未来を基準に、“なんでも本音”が選びにくくなっている。「愛される毒舌」とか「悪意なき本音」と言われても、そんなフレーズくっつかないくらい、さらさらのただの本心でしかない。そんな私もやっぱり怖いのだ。許されないことが。傷つくことが。相手が笑っていないことが。

自分本位の選択をしている。誰かに笑っていてほしいからとか思ってない。人が心地よくいると私も心地よく、人が憤っていると私は怖い。だからなるべく“自分が”不快にならないような選択をしているだけである。私の愉快が誰かの不快なら、(迷惑かけたとか実害があるのは除外して)「それは残念だねぇ―しかしそれはそれ」と思う。そうしてここまで、“自分は自分”“うちはうち、よそはよそ”精神で来ているにもかかわらず、主体性のなさは自分でも不思議だ。“誰かのために”をどこかに置いてきて、自分の決断で生きているのに、“自分のために”がんばることはしない・できない。

本当の意味で何にもしたくないの。起き上がることも、食べることも、しなくて済むならその方がいい。でも命のために、やっているけども。考えることだって、眠って夢を見ることだって、しないでいられたらどんなに安穏としていられるか。眉間に皺を寄せ続けたい奴なんていないでしょ。友達がいることはありがたいけれど、コミュニケートに労力がいる。存在は好きだけど、意識するとなんだか苦しいの。恋人と毎日愛を確かめなくったっていい。愛はここにある、それでいいじゃない。たまの電話で喧嘩したり機嫌損ねたりしたくないよ、だから仲良し過ぎるのは向いていない。やるべきこと、やりたいことさえ億劫なのに、やりたくないことを優先するわけない。何もかも面倒になるのは死に近づくって言うけど、それを脅しだと捉えてもなお、何もしたくない感は拭えない。

あんまり“動”を拒否するから、何の意味があるの!と言われたりする。意味なんて無いよ。そうそう、何もかも意味なんて無い、はいはい。元気なのも、先を見据えることも、いつか皆いなくなるから、意味なんて無い。友達も、恋人も、家族も、知り合いも、コミュニケーションとる気が無いなら、その間柄に意味なんてない。他人や物に、自分の存在価値を求めるのも、意味なんて無いよ。でもみんな、意味なんてなくてもそれやってるんでしょ?生きてるんでしょ?私だって、常に有意義を誓ったつもりはない。

理解できないと離れるだけならまだしも、態度が悪いと責められるのも嫌だし、意味不明だからと攻撃されるのも、傷つきましたと被害者(面)が現れるのも嫌だ。ほとんどは“思うまま”だけれども、年々ビビって本音を黙ることが増えてきている気がする。自分が不快にならないために。守りに入ってるってことかな。

 

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