残酷さの言い訳
私はワガママだなぁと心底思う。誰にでも見えるところに自分を曝け出しているのに、それに対して物申されることが苦手。愛さなくていいけど嫌わないで欲しいと言いながら、既に与えられている愛や情に胡座をかいているところがある。もう十分いい大人なのに未だ自立せずにお世話されている身分である。課された義務に嫌気がさすと権利ごと放棄したくなる飽き性。死にたくなくても死んでしまう人がいる世の中で希死念慮を呟く軽薄さ。何もかも恵まれて、欠けたものがなくて、それでも“何もない”と思ってしまうところ。
それでも、そこにいるだけでいい、なんて言える?生きて存在しているだけでいい、なんてどうして言える?誤解されることも多いけど、煽ってるわけじゃなくて、単純な疑問なの。
「失われた命のその先をあなたが頑張って生きるべき」「生き続けたかった命を前にして生きたくないなんて、どうして言えるの」「辛い過去も苦しいトラウマもなく、平凡に幸せに生きてきたのに生きづらいだなんて、被害者ぶるのは止して」「(あなたより)もっとつらく大変な人はいるのに」「あなたは病気でもないし明日生きる金にも困ってないし何も不自由ないでしょう」
意味はわかるのに、理解できるのに、オートマチックに頷くしかできない言葉たち。私は残酷だ。冷たい人間だ。人に寄り添うような素振りを見せても、ただのテイなのかもしれない。命は大事だの差別は反対だのと正論推して語っても、仕方がないと諦め突き放す一面を、揺るぎなく持っている。誰かを不憫に思ったり、死を悼んだりするのに、“その人の分”を“私が”生きよう、一生懸命に必死に努めようという心情の流れにはならない。悲しみ・残念がる気持ちと自身が生きようとする気持ちには互換性がない。
後追い...の気持ちはまだわかるが、失うことで/他人の不幸を知ることで自分を奮起させるというのはまだ理解できなさそうだ。私のを代わりに差し上げられたらとは思う。失うには惜しい人に残火が移せるならいくらでもと。でもそれも、できないという前提のもとで平然といられる冷静と残酷さなのかもしれない。自分でも解りきっていないこの感覚を、どうしてと問われても説明できない。ただそう思うのだと言ったところで「命を軽んじている」「本当の危機に見舞われたことがないから余裕ぶっこいていられるんだ」と解答されて、閉口したことしかない。
私はワガママで甘えん坊なんだろう。終わらせる理由もきっかけもないからここにいるし、奪われないという平穏さに甘えている。人の役に立ちたいとも誰かの為になればと思ったこともないよ。「人の役に立てるような人間になりたいです!」なんてピュアな思想を聞くたび胸が痛い。それでも、私からソレはどうも発生しないらしい。子供の頃から、今でも、ほとんど。結果から何を読み取られても、全ては私のしたいようにしただけ。したいからしただけ。誰かのことなんて知らない。心優しくもないし、救いたいより救われたいし。誰かの人生の続きや欲しかった時間、そういうのを背負う責任感も覚悟もない。広い意味で「自由に」「好きなようにしたらええやん」って思ってる。熱意ではない、潔い残酷の元に。