こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

ほいと託された命 ってその言い方

自分の行動に責任を持つ、というけれど、責任を“取る”には一体どうしたらいいのだろうか。何かのせい、誰かのせいにするのは実に簡単だ。私は勝手に大きくなったのではない、有難くも周囲の環境が私を“こういう風に”育てたのだ。やりたいように、なりたいように、全てを達成してきたわけではない、しかしこうなるべくしてなった、とも思う。恵まれているから、“させられた”という不自由はなく、“そうならざるを得ない”という自由がある。自分を生かすのは紛れもなく自分だけれど、ほいと与えられたこの体という器と精神という水を、合わせて上手に扱ってねと託されても、願って手に入れたものではないから如何ともしがたい。自分に対してあまりにも無責任だと咎められるだろうか。要るのはただの覚悟だけど、その方法が見当たらない。

他者が毒親持ちで悪影響を被っていたら、反射的に「逃げて」と思う。全くの赤の他人でも、苦しんでいるところを見たくはないのだ。それに比べたらうちはなんて良い親だろう。きっと他人から見ても内側から見ても、好印象の親たちだと思う。しかしだからこそ私は辛くなる時がある。良い親で、優しくて真面目で、平穏な生活を与えてくれて、周りからも「感謝すべき」と言われる環境で育った私だけれど、その私自身が薄情者なのだ。どうしてこういう感じになってるのかはわからない。「冷たい人間」と言われてしまえばそれまでだ。反抗期が未だに続いてるとも思えないが、「親が悲しむ」とか「今まで育ててくれた恩」とかが、“私が死なない理由”にはならないのだ。「どうして自分を生んだの...!」なんて言葉は、毒親に対する叫びなら正当防衛だが、うちのように真っ当な親たちにはさぞ残酷に刺さるだろう。(一応今まで言ったことはない...はずだけど。)頭でも、心の片隅でも、わかってはいる、事実どんなに恵まれていて、どんなに有り難いことで、どんなにちゃんとした家族かってことは。「それを手にしたことのない人もいるのだから」と比較から促される自覚と優越感に、私はいつも納得できない。「それはそうだけども」って毎度屁理屈を言う。ないものねだりだと睨まれても、私には私の、既に生まれてしまった意志がある。

鬱屈してそうな雰囲気で書いたが、日常は至って穏やかで平凡だ。親とも、思春期からの断続的な爆発反抗期を経て、一度物理的な距離が空いて戻ってからは仲良しこよしだ。少し小難しい話も落ち着いて話せるようになった。やっと親が期待する精神年齢に追いついてきたというところか。しかしまぁみんな人間だから、いつもオモテ面だけで生きてるわけなくて、内側には秘めてるものが誰しもあるのだろうね。私のココだってそう。きっと家族には見せていない顔だ。多面のうちの一面が「普通に親に感謝してる」だったら、残りの面はどうだろうね。私の半分以上は優しさじゃないもので構成されていると思う。

 

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