いつまでもトンネル
将来のことを考えると、お先真っ暗だ。比喩じゃなくて本当に。目の前が真っ暗になる。まぁ眠ってしまうんだけど。電源オフがいつも急だ。想像してもしても、自分の全く見知らぬことは思いつけない。経験済み且つネガティブなことばかりが浮かんでくる。「ありえないことだって、自分で実現させれば“ある”んだよ」って笑える人は、余裕ありすぎだろってクラクラしちゃう。どんなにどんくさい私でも、これだけ繰り返せば先読みの能力が多少はついて、周りの言わんとしていること、言いはしないが秘めて念じていることがわかってくる。私はそれにわーわー言いながら耳を塞ぐ、心の中で。実際には真面目に話は聞いてますよ、理解もしてます、実行に至らなくても聞いてはいます、それもまた相手に伝わってしまっているか。あれこれアドバイスする人も、心配して励ます人も、よかれと指示する人も、みんな最期を見る覚悟がないならちょっと抑えるべきだと思うんだよね。好きにすれば~は最大の責任放棄だ、私は多用するけど、正直そこまで人のことに構ってられないからそんな言い方になる。自分が好きにするのも責任とりきれるか?ってところだし。
親がね、「(私が)叶わない夢を見てたとしても、昔はきっと反対もしなかった。夢がないよりあるほうがいいと思ってたから、それが現実的でなくても応援した。」って今言うの。それは...言い方失礼だけど後出しじゃんけんだよね。やる気がない今の私との比較から出てきた言葉でしょ。無謀な夢だって過大な理想だって、今みたいに何にもないよりはマシっていうことだ。それは確かにそうだけど、でも実際子供の私が実現しそうのない将来像を口にしてたら、それはそれで否定してたと思うよ、今と同じテンションで。心配症だしどっちかっていうと保守的な性格の彼らだから。子供の頃の私は子供なりに気を遣って、あとすでに多少の諦念感もあって、親や周りが褒めてくれそうな、応援してくれそうな、将来の夢を描いていた。弱い子だったから。今も弱いけど。笑われたり、馬鹿にされたり、嫌われるのが怖かったし、すごいね偉いねと言ってもらいたい邪な気持ちもあって、それを目標と言い張っていたと思う。派手で奇抜な夢も、堅くて現実感のある夢も、私にとってはどれに対する距離も一緒で、遠い。だから本当は、今とさほど変わらず、“何もない”が正解だったのかもしれない。もちろん正直に「夢は全然ありません」なんて言ってたら、一瞬沈黙の後、心配されたと思うけどね。それこそ、現在と同じように。「何かないんか。何かしらはあるやろ。何でもいいから。」と。それでやっぱりビビりの私は、全然冒険しないことを適当に言うんだ。
今は大人になって、何もないもダメだし、夢見がちな夢もダメ。「もうあの頃のように許される時間は終わったの」なんて言われて、現実的な目先の安定を求められる。目先って言ってるけど、本当はその先最期までずっと続く安定、願わくば...ということなんだけどね。「だからお先真っ暗だって言ってんじゃん」って言い返す気力ももはやない。怖いなとは思うよ、そりゃあもう。でもどうしようもない。