こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

i have control

完璧主義なところがある。信頼する人から「あ~あなたにはあるよね~そういうとこ」と軽い感じで言われると、やっぱりね、と思ったりする。しかし私は不器用なので、結果的に完全なる完璧にまみえることは少ない。完璧にこだわり齧り付くあまり、どこかにしわ寄せがいく、ボロが出る。例えば、丁寧な仕上がりに注力し過ぎて時間オーバー。逆に、タイムリミットがあればできる限り早くと頑張るが、時間を意識しすぎて内容が中途半端。そういう“しょうがない”ところを、“完璧主義の私”が許さない。他人が「全然問題ないよ大丈夫」と声を掛けようとも、「ダメ!」と割って入って、怖い顔でこちらに振り返る“私”。どうしてダメにしちゃうんだろう、完璧じゃないといけないのに、ひとつも取りこぼしちゃいけないのに。自分で期待して自分にがっかりして、それでも不出来な自分に完璧を求める。自信があるわけじゃない、「次はできる」って自分を励ましているわけでもない、ただ、完璧にこだわらなければ、それがポリシーなのだから、と尻に火をつけるように追い込んでいる。

時には、その背伸びがなんらかの成功を呼ぶこともあるだろう。完璧にこだわったからこそ、満足いく“完成”にたどり着くこともあったかもしれない。けれどもほとんどは、「この程度で良し」と思うこと自体許されない。ひとたびこれは完璧じゃないとなると、その狂気は発動する。できるかできないかじゃない、そんなレベルにさえいっていない。延々とこだわり続けることを強制するように、「これでよし」と安心せぬように、できなかった自分に対してずっと後悔を持ち続けるように、完璧主義の私は、できない私を許さない。

一方で、「無理ですよ」と深く腰掛けたまま呟く私もいる。身内では、そういう態度が本当の“私”と認識している人も多いだろう。「適当でいいよ、なにもかも」「だってしょうがないでしょう」「できないのだから諦めよ」なげやりと言われてもこれが本心だと冷静ぶる“私”は、先ほどの完璧主義と相反するようだが存在する。「完璧・完全・完遂!」と高々掲げる私に追い詰められている“私”にとって、これは救いだ。面倒くさがって「はい、もうそれでいいよ」と言ってもらえれば、どんなに気が楽になることか。できもしないことは早々に諦めて、完璧というノルマから解放されて、自分で自分を苦しめるストレスからも放たれる。この怠惰こそが私の本心、そんな気にさせられる。

ただ、この「楽になる」感覚は、適当を乱用する“私”のほんの一面から与えられるものであって、“この人”は先の完璧主義の私と同様に、不出来な私を知っている。“できないのが私だ”と認識している。だから、何も期待しないのだ。「無理なのを知ってるよ」「適当レベルでももういっぱいいっぱいなんだから」「諦めるよね?しょうがないことだとわかっているならば」私が私に対して思っているのだから、これは所謂、自尊心―そしてその低さ、ということだろう。

私をコントロールするのは間違いなく私、なのに翻弄され続けている。どんな顔していてもどれも自分という事実に、「だから嫌なんだよ」と不可能な放棄を思い浮かべてしまう。どんな“私”が良い悪いを問うつもりはない。内側の世界ばかり見つめている私の、内輪もめに対する愚痴である。

 

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