皆なんて人はいません(言い訳に対する面倒な返し)
他に何もしていないから、こうやって毎日書き続けられてるけど、こればっかやってるから、日常に変化がなさ過ぎて、書くことなくなってくる気がしてる。それでも今は、なんとか書いてるけど。器用じゃないんだよな。いろんなこと同時進行できない。別にそれを誰かに求められているわけじゃないけど、もしやり始めたら、ちゃんとできてないと気が済まないと思う。他に集中を奪われることができたら、毎日更新なんて確実に無理。(というか、今やめてもいいんだけどね、強制されてるわけじゃないし。)
まぁ特にネタもないのによく続いてると思うよ、自分で言うのもなんだけど。来年からぐっと減るかもしれないな。まぁわかんないけど。似たような内容でもOKにしてるから、脳内のぐるぐるを延々と書いてられるけど、何か事件でも起こったら、私の気がころっと変わることはあり得る。新しい吐き出す方法見つけたらね。その時に考えよう。
ついつい忘れがちなんだけど、「大勢だ」と見ている群衆の中にもひとりひとりの人生があって、ひとりひとりの生活がある。人ひとりと対面して話していると、その人を“ひとりの人間”として見ているけれど、普段はつい“自分”と“自分じゃないその他大勢”として考えてしまう。自分にはないものを皆は持っている、と思ってしまうし、本当は“皆”というカテゴライズはあり得ないのに、何故か見えてる集団を“皆”と呼んで、ひとつの存在のように捉えている。私が一括りにしがちな沢山の人間たちの中で、全く同じ人間はひとりもいなくて、みんな違ってて、ばらばらで、それぞれの紆余曲折、喜怒哀楽、あるはずなんだ。そのことを時々はちゃんと思い出して省みようと思った。
宇宙から見ればちっぽけな存在でも、その人は誰かの大切な人、という考え方がある。もちろん、誰かというのはその人自身でも構わない。ホントくだらなく思える人生でも、嫌われ者でも、過ちを犯してばかりの人も、地味にウザいことしてくる顔見知りも、誰かの大切な人。そう思えばほんの少し、ひとりの人間として相手に興味が湧いてくる。フォーカスが、“沢山いる人間の一部分”から“その人というひとりの人間”に向いてくる。私にはきちんと意識しないとまだ無理だけど、元々そんなになかった他人への興味が、ちょっとは持てるようになった気がする。「誰かの大切な人だから大切にせよ」ということじゃないし、もしそんなこと言われたら私たぶん拒否る。ただ、そう思うことによって、“自分対大勢”から“自分対ひとりの人間”になって、広い視野というよりは深い視野で人と関われるようになるのかな、と思った。
私個人の日常は、今現在何の起伏もないけれど、私がぼやや~んとしている間にも、物凄い数の“個”が、それこそ多種多様に、それぞれの人生を生きてると思うとちょっと怖いね。今灯る火があれば今消える火もある。私から“皆”と呼べるほど単純じゃない“ひとりひとり”がそれぞれの呼吸をしているのだな。