正直、あん人なしでもあんた生きれるやろ?
未だにいるんだなぁ、他人をどうにかしたいと思うワガママな人、と思うなど。SNSで「私が不愉快になるので発言しないでください。」って平気で相手に言えちゃう人、自分の自由を守りたいがために相手の自由を制限する人、自己中心的だなぁと思う。前提として、故意に迷惑かけたり、不躾な態度だったり、乱暴な言葉を投げかけることは、人間としてするべきではないけれども、同時に、相手の自由・己の自由を両立で守っていくことも大切だ。
「あなたの能力は高く評価しているけどこの行為はやめてほしい」とは、一体どういう立場だったら言えるのか。評価している=愛がある故に、失望するのは嫌だ、ということだろうか。そりゃあ他人のすることだから、気に食わないこともあるだろう。自分が好いているからといって、相手が思い通りに行動してくれるとは限らない。親子間でさえそうじゃない?だって相手と自分は別々の人間なのだから。そこを知ってか知らずか、「好きなのに...やめてほしい」とか「好きだからこそ...がっかりさせないでほしい」みたいな、押し付けを平然と本人に向かってやってしまえるというのは、一体自分のことを相手の何だと思っているのだろう。単純に疑問。
自分を不快にさせる発言や行動が、世の中にあるのは当たり前だ。何もかもがぴったり愉快なんて奇跡中の奇跡だと思う。まして相手との信頼関係など無い中で、あれやこれや注文つけだしたらキリがない。社会で時々起こる、そういう摩擦や不快感を回避するために“自衛”というものがあるし、それをせずして「やめろ」というのは、いやぁ乱暴だなぁと思う。もちろん、社会はひとりひとりの存在でできているが、世界にふたりきりというわけでもないのに、何故そこまで大胆になれるのだろう。“誰かの不幸は自分の幸福”“自分の不快は他人の愉快”とはいっても、それは決して表裏だけの話ではないし、「私はこう思う(あなたとは違うけれどね)」というのは、どちらも、誰でも、いえることだと思うんだけどな。
「嫌なら見なきゃいいじゃん」と「嫌でも目に入ってくるんだもん」論争はどこにでもあって、はぁ...また無駄に疲弊してんなぁ、と私は思う。「そういう態度ならSNS向いてないんでやめた方がいいよ」と相手に急に“アドバイス”する人、ブーメランで、そのセリフを躊躇いなく発信するそちらこそ、SNSでの己の在り方を考えた方がいいよ、みたいなね。(まぁ私が最近見た人は、他の同調が欲しかったのかもしれないけど。相手を含む他人がその発信をどう扱おうがそれもそれぞれの自由だからねぇ。)自由にはリスクが伴う、それを忘れて自ら起こした火で燃えて、痛いと叫び相手のせいにする、いやぁ、私も言えたもんじゃないけど、“上手”じゃないねぇ。SNSってある種“反応したもん負け”みたいな所あるじゃん?だからもうみんな各々自立して、わざわざ自分宛にされてない限り、反応する義務はないと思うんだよな。ただ反応するしないも自由だから、他人がどっちを選択したとしても、怒っちゃダメだと思う。(自分が名前入りで全世界に向かって発言しておいて、他人に見ないで!本人に届かないで!その本人も取り上げないで!というのはいささか無理があるような気が....。)自分の思い通りになってない相手に対して、「そういうとこだぞ」って窘めてる風に言ってるの見かけると、私は無関係なのになんだか恥ずかしくなる。自分のできることを尽くさないで何を偉そうにしているの?と、子供のような目で見つめたい気持ち。
今回は贔屓目含んだ愚痴、かもしれない。でもなんていうか、相変わらずここは平和じゃないなーって思ったから。もちろん、この程度のことで他人の私がぺちゃくちゃ喋れてしまうこと自体は、ある意味世界は平和と言えるのかもしれないけれど。