お静かに。
自分がどれだけ同じ言葉を使っているのかと思って、時々検索を書ける。大体ちょっぴり凹むのだけれど。同じことばっか言ってんなーってのは、書き始めからわかっていたことで、改善するようなこと何もしてないのだから当然なのだが。あと、同じようなことしか考えないということかもね。所詮私の世界は狭いし、脳内の手の届く範囲しか攫っていない。
私はカラフルな写真とか(例えば蜷川実花さんのような)、絵とか服とかを見るのは好きだ。でも自分の脳内がカラフルなのはしんどい。楽しいという気持ちは独立してそれだけ在ることはなく、妙な焦りや疲れを連れてくる。うまく排出できればいいのだけれど。夢がカラー映像なのも、時に楽しく、時に恐ろしく、どっちにしたってどっと疲れてる。鮮やかな刺激は興奮を促して、時間差はあっても確実に疲労を呼ぶ。画的なカラフルだけではなく文字や言葉にも色があってカラフルだ...と感じるものが在る。刺激的や衝撃的、眩しいとか痛いとか重いとか熱いとか言い換えることもできる。これが所謂HSPということなのか、いろんなカラフルにアテられて、頭の中の“私”はクタクタ、瞬間的に閉店ガラガラしたくなる。
絵や本など、自分の目で見る分には調節できるでしょう。しんどくなったら見なければいいし、音や手触りも、苦しくなったらシャットダウンして触れなければいい。でも脳内がカラフルでましてや騒がしいのを、止めるのは少し難しい。外的なものと同じように閉じられればいいけど、うまくいかないこともあって、おとなしくなるのを静かに待つ時もある。夢は、終わりかけの時続きを引き延ばすことはできるけど、見始めの“何の、どんな映像にするか”は選ぶことができないでいる。起きている間の頭の中も、渦巻く感情や言葉や画の、色や量や温度は、自力では調整することができない。暴走してショートする前に、外に出さなければならないのだ。(それがココだったり、意味のない奇声まがいのため息だったり、延々に終わらない塗り絵用の色鉛筆選びだったりする。)
至って普通とされる世界を見ている。色覚検査で異常は見られなかったはずだけれど、見えている色が“正しい”のかなぁと時々不安になる。聴こえている音やタイミングが、“ちゃんと”合っているのかなぁとか、私の感覚の話は、理解は置いといて、伝わっているのかなぁとか。前にも、数字に色が・画に音が・手触りに味覚が、みたいな話書いた気がするけども、どれも説明しきれないただの「そ~んな感じ~」な話なので、妄想、幻覚と言われても納得する。さっきの脳内カラフルの話だって、楽しいけど騒がしくて疲れる、言葉がこんがらがってうるさいというのを、わかる人はわかるだろうし、わりと人数もいるのだろうと思えば、存在し得る世界なんだなぁと安心する。変わらず偏った世界観で、今日も渦の端っこを溢している。