こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

ありえなくてもあるんだ

明日生きている保証はなくても、今日と同じ日は二度となくて一日一日が全て貴重だとしても、私が時間を大切にできないのは、リミットがあることを自覚できていないからだろうか。わかってるわかってるはいはいと言っているけれど、本当の所はわかっていないんじゃないか。生きるにやる気なく、それでも今まで生きてこられたから、逆にやる気を出すと、それはそれであっさり消えたりして。不確定であるからこその自由を使いこなせないし、先のことがわかったら必死になるかというと、約束はできない。

一生懸命生きている様子に、感動はするけれども感化はされない。どんなに泣いたとしても、自分の行動には表れない。心しんでるのかな?と自分で自分に思った。涙は条件反射なのか、以前より涙脆くはなってきたと思うけど、それは行動のきっかけや糧とは直接関係ない。「泣いたよね、心にぐっときたよね、なるほどね~、ところで最近も引き続きやる気がない」そんな感じ。偽善や安い同情心で泣いていると、言わせたくはないけれど、全く違うと自信をもって言える理由も知らない。先達が見つかったとしても、それについていかないのは、自信がある故ではない、自信がない故、だ。

いつまでこうなのだろうと考える。周囲は、同調も否定もしにくいらしい。「やめちゃえば?」とも「やめないで」とも、結果自分のせいにされたら困るから言えないんだと。皆が皆生きたいに決まっていると思っている人には、無意識の分断の向こう側を想像できない。涙するなら、感動するなら、それは心が動くということだろう、心が動くなら己の行動は変わるだろう...それはたくさんある道筋のひとつだ、そうする人もいる。しかし全ての人ができるとは限らない。証明もしていないのに断言する人に、知らず知らずの内に存在を消されている。

衝動なら、他者の感情や言葉でも、抑えられるかもしれない。「落ち着いて」「思い止まって」「大丈夫だから」爆発もない、激昂もない、瞬発力もない、ゆっくりと沈むようにこの世界と距離をあけていくなら、周りから見ても気づかれないかもしれない。「能動的ではないんでしょ?」「なんだかんだ言って生きてるじゃん」「全然平気そうだよね」向こう側の誰もが、一時の気の迷いで、一瞬の覚悟で、突発的な衝動で、ソレを選んでいるのか。否、きっと一辺倒ではないだろう。それを想像すらしたことのない人たちが、また代表者の顔して議論をしている。私はそれを目撃するたびに、異世界に来たような、透明人間になったような気持ちでいるんだ。未来にどうなっているかじゃない。今を生きろというなら、今をどうにかしなければ。

 

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