浮沈回避行動
イベントごとの前は何だって憂鬱だ。イベントと言ったって、発表会とか恒例行事とかライブとか、そういうものだけじゃない。非日常というには些細な、たまの外出だって私にとってはイベントの一部だ。心が通常運転ではいられない。それがどんなに愉快な結末になる出来事だとしても。
遠足や運動会が「楽しみで」眠れない、というのを一度も経験したことがない。運動が苦手だから文化祭なら...となるかというとそうでもない。必要な準備があればそれなりに一所懸命やるけれど、前日の夕方からは憂鬱でしょうがなかった。“日常”のペースが崩れるのがしんどかったんだと思う。いざ始まれば最中は楽しめるけど、終わったら今度は“祭りのあと”が待っている。それもまた、しんどいのだ。
今のほとんど浮き沈みの無い生活において、たまの外出や他人と関わる用事というのは、私にとってのイベント、となる。とても久しぶりに家族以外に会うとか、人生で初めての経験をするとかになると、恐らく大イベントだ。“イレギュラー”を楽しいと思う心も持ってはいるのだが、ここ数年はゆる~い社会生活しか送っていないため、日常からのちょっとした“はみ出し”が、大きな違和に感じてすぐ疲れてしまう。具体的には、公的な場所(役所とか)に行くことも、コロナ渦でずっと行けてないヒトカラも、必要だし自分のために行くんだけども、当日に向けてだんだんと、妙に緊張、というか憂鬱になってくる。あっさり終わること、嬉しい楽しいこと、なのに、なんとなく行きたくないなぁと思う。日常からイベントに挑むのは、この怠惰な私には非常に億劫なことなのだ。散々好きなようにやっといて何言ってるのという感じかもしれないが。
私は音楽や舞台、博物館なんかが好きだから、本当は(個人的制約を無視できるなら)いっぱい観に行きたい。けれどもそれを日常にはできないでしょう。だから長いスパンの間に一日だけ数時間だけ、それらに時間を預けることになる、つまりイベントになるのだけど、そこから日常に戻ることがなかなか難しい。気持ちの切り替えがとことん下手なのだ。すごい好きなもので、楽しみもわくわくも持っているのに、当日始まるまでは憂鬱で、間は楽しくて、終わってしまって現実に戻らねばならないとき、また憂鬱で。その気分の上下に、自分自身がすごく振り回されて、どっと疲れてしまう。日常と非日常を移動するのにものすごくエネルギーを使うから、だったら最初から動かない方がいいね、となり、憂鬱を連れてくるイベントそのものを回避するようになる。行きたい気持ちが勝ったとき、行ける状況であるときは、意を決して行ってみて、結果楽しいことになるんだけど、それでも後悔が全くないとは言えない。「なんでこんな疲れるような状況にしてしまったんだろう。楽しかったけど、こんな後ろ髪を引かれ続けるくらいなら、知らんかった方がよかったのでは?」って思うことも、ある。
みんな、非日常を糧にして日常を頑張るっていうじゃん。器用だな~と思うよ。イベントの頻度が高いと“特別”じゃなくなるし、日常に馴染んでないから“非日常”といえる。その間の転送がスムーズなのは才能なのか、慣れなのか、とにかく元気だなぁいいなぁと思う。