こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

make no sense

9月は特別な印象を持たない月だ。というのも、私は例年、何もしてないくせに“夏”に疲れていて、そこに“秋”の顔した空気が流れて、まだ暑いというのに...とさらに疲労させられる。新学期、まだ早い長袖、久々に会う人の顔つきが変わった、どれも私にとっては心躍るものじゃなくて、気温は過ごしやすくなっていくのに、憂鬱は引き続いていくのが、なんだか納得いかない感じだ。かといって、8月が印象的だったかというと、それもどうだろう。(どうなんだ。)

ただおもしろいでは笑えなくなってる自分に危機感を感じる。世の中に評価されているコメディーも、頭いいなぁとかすごい考えられてるなぁとか、何目線やねんって感じで見てしまう。コントとかでもっと素直に笑いたい。面白い人間のおもしろいトークで大爆笑してみたい。感心や感動ではなしに。最近のおもしろいがわからなくなってきたということも思う。ただの人間同士の会話を、関わり合いを、難しいように考えすぎ、見たまんまを感じておもしろかったら笑ったらいいじゃんと言われてしまうけど、こちらの捉え方がおかしいのだろうか。まったく無感情ってわけでもなくて、時々はそりゃ笑うけど、いろいろ考えてしまって、“なるほど”を目指してしまう。それって自分でも楽しめてない感を持ってるのに、どうすることもできないで我に帰るんだよな。

他人が他人を侮辱しているとき、自分は何も関係がないのにいたたまれなくなって、全てを消してしまいたくなる。テレビやスマホの中じゃなくてもね。人を笑う声も、人を怒鳴る声も、不快でしかたがない。私に対してではないのに、何をそんなに怖がっているのだろう。“逃げたい”と脈絡もなく言うのは、ひとりなら、今でもなかなか治らない。私の人生は、今も昔も平和で、思い出して重ねる不幸な場面など、ありはしないのに。たとえそれがお笑いやイジリであっても、信頼のもとに成立する日常であっても、それがパフォーマンスだと知っている上でも、ある一部の場面では苦痛に感じる。他人を変えられないから、世界を歪められないから、私が目を閉じ耳を塞ぎ、“流れ弾”の当たらないところでにっこりひっそり丸まっているしかない。

他人や世間に不満を抱くとき、自分のことを棚に上げておいて、完璧主義を押し付けてるな、と思う。前に書いたかもだけど、「どうか(私の見る限りは)綺麗な世界でいてくれよ」って思っているから。これこそ何目線だよって感じだよね。うまくいっていない“自分じゃないもの”に対して怒るなんて、自分の思い通りにならなくて駄々こねてる子供みたい。「どうしてこうなってんの」ってキレたところで、“勝手に”と思ってるなら責任放棄な気もするし、実際自分が関与し得ないことならば、苛々した感情を持つこと自体筋違いなんじゃないかとも思う。そうやって、時々偉そうにしてる自分と出会して、ため息ついてる間に夜になる。ほぼ変わりない自分と自分以外が新たな“翌日”を迎える。

 

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