こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

change myselfは必須か否か

自分を大きく変えるべきなのか考える。他者と自分なら、間違いなく自分を変えるべきって考えだけど、自分をちょっとだけ変えるっていうのは、加減もいろいろだし、何か効果あるのかなって疑問に思う。ないものを新たに生み出したり、できないことをいきなりしてみてできるようになるっていうのは難しいから、今現在あるものをなくしてみたり、よくない習慣をやめてみたり、全くしていなかったことを一瞬でもしてみるというのはどうだろう。それで得られる変化ってきっとちょっとだよね。(それがよくないわけではないよ。)大きな変化というのは、もっと劇的な、冒険的な、事件的な、思いもよらぬ所に現れるもので、私の性格または生活上、あり得ないのかもしれない。能動性なし、人に会わないため他人から直接的に受ける影響なし...。となると、その大きさや効果はともかくとして、“変化”そのものを求めるのだったら、何か小さな変化から試していくしかないのだが...。私は待ち合わせの待ち時間ならいくらでも待てる方(というか大概は自分が遅刻気味...)だ。しかし、面倒くさがりのため、地道にやっている自分を見守るってことができないっぽい。待ち時間は待つ以外の行為に気が行っているし(周辺観察とか)、見守っているつもりが違うことを考え始め、現在進行形の積み重ねを投げ出してしまう。“大きな変化”と最初に挙げたのは、小さな努力も繰り返せない自分、ならばバン!と突然に一気に事が起きて変化せざるを得ない状況に、自分を置くべきか、と考えたからである。もっとも、今は“それ”をたまたまと呼ぶくらいの私の積極性のなさ、ではあるので、“べきか”と問うのは少し違うのかもしれない。まぁ大きな変化を自ら起こすべきか、なら多少話が繋がるかしら。

「うだうだ言いながら、急にハプニングがあったら、いくらそういう自分でも焦るんじゃない?」と言われて、それは確かにそうかも、と思うし、いや、それでも腰は重くてそのまま朽ちていくかもしれない、とも思う。腐るなよ、と人は言う。変化しないといけないの?スピード速くないといけないの?もう間に合わないと言いながら尻たたいてくるのはどういうことなの?なんとかしよう・どうにかしようって動き回ってないといけませんか?テキパキしてて手際よくて役に立つことが称賛され、そうでない自分が称賛されないのは当然わかるけれども、そこを目指すように叱咤激励されるのは一体何なんだろう。今が“正しくない”ということだろうか。修正かけられようとしている?

言い訳でしかない、と自分でも思う。変わろうとしない自分を認識している。でも必要条件かつ前提として出てくるのは、やはりやる気なのである。生気、覇気ともいう。人生の中で何度か向き合った大きな変化に対して、その度に結構なエネルギーを費やした。その後、今まで満タン回復したことがあるのかもわからないし、今現在に気力の残値がどのくらいあるのかもわからない。ないものを出せというのも無理な話で、自然回復も追加供給もできていないのなら、いつまで経っても“足りない”状況は続く。

 

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