“デフォルト”からの解放
世の中不思議なことばっかりだ。と壮大な始まり方をしても、目下悩まされているのは己の慢性的体調不良だ。まぁ今の期間は仕方がない。そう呟くだけで病院を先延ばしにしているのはただの怠慢だ。私は、今日も変わらず“休ませている”。
近頃はわりとオープンになってきた生物学的女性性の悩みについて、自分もその界隈の端っこに含まれている自覚がある。問題の解決に向かって切り開いてきた方々の活動には本当に感心する。先駆者がいるおかげで、自分も少しずつ心開けるようになってきた。例えば、不快な事象一つ、我慢することが当たり前のようになっていたけれど、快適になるって選択肢があるんだ、健やかでないならそれは問題が“ある”ということで、問題“なし”にすることを躊躇う必要はないんだ、って教えてもらった。「他人にはわからない辛さだから」「自分が耐えればいいだけだから」「そういうものだから」しょうがない、と済ませてきたことに「本当にしょうがないの?」と疑問を呈していい世界だったんだ!と視界が開けた気分だ。
この体はどうしたって不思議でならない。人体とは実に面倒くさい。個人差という言葉を前にして何度も小さく傷ついてきた。もちろん同じような苦しみを持つ者同士が集まって、傷の舐め合いをしたいのではない。できるなら全員癒されたいし、解放されたいのだ。フィジカルにもメンタルにも痛みが伴うとは、この命、もうちょっとなんとかならんかったものか、と常々思う。
私は始まりの頃からこんな感じだったわけではなく、幼少期は自分の性別や外見や体のつくりをわりと肯定的に捉えていたと思う。いつからか、“不都合”“不具合”だと感じ始めてからか、「なんでこんななんだ」と自分の体の“不快”な部分を睨むようになっていった。自分をちっとも好きじゃなくなった。体育でどんなスポーツをしても上手だったクラスメイトの男の子や、「生理痛なんて全然なーい」と言っていつも笑顔の女の子が羨ましかった。きっとそのふたりにも、私には見せていない自身が嫌いな自分があったのかもしれない。決して私だけが辛いと思うことはないけれど、自分が持てる体は今の“コレ”のみなんだ、と、どうしたって向き合わなければならない。
“こんな感じ”で生まれてきてしまったのだから致し方ない。完璧になりたいと思ってなれるわけじゃなし、今より深刻な問題を抱えたいかというとそれを望んでもいない。絶えず生まれ変わる細胞、まだたぶん寿命は残ってて、余白が全くないというわけでもないから、逆に良い変化に転じることもできるのなら、そこに期待してもいい気がしてきた。痛いなら痛いまま、辛いなら辛いまま、ありのままを受け入れることが大切なときもあるけど、“良くなる”ことや“元気になる”こと、“何の問題もなく”“快適になる”ことに遠慮する必要はないということだよな。