こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

ばらばらになってんね

“おもしろいこと”も“ガツンと来る衝撃”も、待っているだけではやってこない。ちょっと目を離せばもうすぐに埋もれていくから、ちゃんと目を開けて、自ら探しに行かなけりゃならない。最小限の歩数しか得てない私は、“待っている”意識はないけれども、状態は待っているに等しいだろう。それでもって、嘆いているつもりもないのだ。“すべき”私の停滞を見て、嘆いているのは周囲の方。

私は妙なとこに意識の切り分けがあって、例えば仕事で得る達成感を自らの物とは思えない。業務上で「あなたのおかげよ」と感謝されても、相当のお給金を貰っても、それが私自身の“評価”に感じない。社会的には紛れもなくそれが“私”であり“評価対象”なのに、“私”に付いているラベルだ、とは受け入れられない。何故か。仕事をしている私と“私”そのものは別ものだという感覚、とでも言おうか。どんなにいいことがあっても、どこか他人事のような、「自分のものではない感覚」になる。悪いことが起こっても“スルースキル”としてまるで他人事のように思えたら、それはそれでいい気もするけど、案外、ネガティブな事は過去時点における“私”自身が背負っている、と思ってる。笑えない事情に立つ“私”は、感謝や称賛される私などより、(私の思う)“私自身”により近い。

「自分の好きなところを見つけて、長所を活かして、自分自身を好きになろう」と啓発されてる。自分から出たもの(自分の身体の一部でさえも)を人に褒められても、自己肯定感は上がらない。元が低すぎるから、かしら。それそのものへの評価としては有難く戴くけれど、それの出処・主・発信者である自分自身が褒められたのではない、と思う。逆に貶されたとしたら、それはその“もの”に対しての評価であって、自分の人格まで否定されたのではない、と思うことができるが、だからといって凹まないわけではない。それが何ともやっかいな所だ。自分でも、そう思う。

私の“行動”と、“私自身”とが直結していないから、私は動かないのだろうか。それともやっぱりただの怠惰の言い訳か。生きてきた時間が積み重ね、と言われる度、私は「そんなものはない」と落胆する。“無駄”にしてきたと思うし、これからもそう。比較や実績ではなく、体感からそう思う。「そういうことじゃない」と、自分が“理解”するまでには程遠い。

なんとかやる気を出してもらおうと頑張っているのは周囲の人間だ。私だって意識していた時期もあった。しかしいつの間にか火は消えてしまった。私には伸ばせる長所も引き出される魅力もないし、またあったとてそれをイコール自分とすることもできず、「なーんだ、全ては無駄なのか」と諦める思考になった。以前も書いたかもしれないけど、どうしたら丸ごとの自分を許せるようになるんだろうね。向上心があるわけでもない、上昇志向が欲しいわけでもない、「そんなもん」だと思うなら、ただそれだけで、こんなに鬱々とした気持ちまで持ち続けなくてもいいのにな。

 

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