2021 ending
年が変わるという。また区切りをつけられる。自分の気持ちに関係なく、ここが境目だと告げられる。私はいつも通りどんくさくて、ここに来て何故だか焦りだすけれど、でもすぐにスンとなるの。今更足掻いても、何に抗っているのやらって感じ。ここ一年にやり残したことは多々あって、きっと頑張ればできたはず、とでも一瞬思っていたんだろう。実際はどうあれ、思うのもやるのもやらないのも私自身だ。ブログの書けていない分はなんとか年内に書き終えたい、なんて年末のある日ふと思ったけれど、いや、やっぱりもういいや、“間に合わせ”は諦めよう、と決めたのだ。いつか、書くは書く。でもとりあえず更新だけしとけばいいや、はやらない。それはもっと、他の場所でもできることだし。自分でも「あーあ」って残念に思ったし、“いつも”こうだし、締めが悪いなぁとも感じるけど、まぁ誰に迷惑をかけるでもなし、毎日更新を掲げながら行動が伴っていないことを、自責し続けるのもどうなのかなぁ、と思ったのだった。
中途半端なことばかりだし、劇的な始まりも、有能の証明も、立派な達成感も、何一つなかったけれど、今年という一年が終わろうとしている。一番「いいかげんにしろ」と言われた一年かもしれない。自分も周りも満足するような、納得できるような行動ができないのは、欠点というのだろうか。埋めるのを邪魔するのは、芯もないのにしつこい自我なのだ。「どうにもならない、を思い知らされる日が来ないように」予防線を張るよう勧められる私の腰はどうにも重い。
振り返ろうにも、特徴の浮き出ない毎日だった。私自身は決して暇とは思っていないけれど、他人から見ればなんとも面白みのない日々だ。物事を目的無く始めて、突如生まれる物語、なんてものはなかった。当然だ。自分で、刺激を避けて抑揚を避けて選んできたのだから。無意味だけれど、間違いなく己が選んだ“日常”だ。良い・悪いと評価するつもりもないし、対策・改善などと問題視することもない。二度と取り戻せないと知ってて流した、意図的に見過ごした毎日だ。正直、自分でも印象薄いから多くを語れない。だいたい毎年の大概を忘れてしまうのだ性格的にも。何かのタイミングでここの過去記事を読み返してみても、自分の言葉なんだけど他人っぽい、その時々に“当時の自分”を置いてきているのか、“延長線上”の今では無い気さえしてくる。確かに“生かされてきた”と思っているし、“感謝”の気持ちもあるんだけれど、はっきりと“今年はこれ”という話し方は...うーん、できないなぁ。
ひとまず、今日を数えられることに感謝するとしよう。駄文を好き勝手重ねられる毎日に、気まぐれを許される環境に、脳内のぐるぐるを垂れ流せる自由に、ありがとう。もしかしてこれを読む、自分以外の人間様、お時間を頂き、ありがとうございました。残りを存分に起きて、今年を終わる。ではまた来年。