あなたの声を聴くために、口を閉じる
急に寒くなったね。なんて、季節的なことを言ってみる。昨日「ようやく秋来ましたねー」なんて言ってたのに、今日めっちゃ寒いんですけど。冬じゃん。なんか毎日悲しいとか恐ろしいニュースが上がるしさ、私は元々テンション高い人じゃないしさ、気温まで低くて縮こまってると、鬱々とした気分になるね。実行しやすい癒しは静的なのが多くて、好きでやってるんだけどなんか効果あるんだろうか?ってことが多い。動的な、いわゆるストレス発散みたいなのを勧められるけど、いまいち何をどうやったらいいのかわかんないし。インドアな上にナマケモノだから寒くなるともう完全に地蔵だわ。
季節柄ってわけじゃないんだけど、最近思った話。身近な人とか、好きな芸能人が体調を崩すとやっぱり心配になるじゃない。でも同時に自分にはどうしようもないことだ、とも思うんだよね。体も心も、結局持ち主は本人だけだから。心配のあまり、だとしても、他人の言うことにいちいち耳貸してたら、キリがないと思うんだ。もちろん、お医者さんとか、プロに委ねることも必要だけど、そこが信頼に値するかどうかも、やっぱり本人が見極めなきゃと思うし。意識の問題だとさ、周りがどんなに正しく客観的な判断をしてくれてても、本人が思い込んでいたらそれはその人にとっての現実なんだと思う。(訂正とか改善とか医療的な解決策はまた別にあるとしても。)本人が判断に迷っていたら、そこで適切なプロが本領発揮すればいいことで、無関係の、聞きかじりの、またはたとえ家族だとしても本人じゃない人間が、あれやこれや進言して、その人を“どうにかしよう”とするのは間違っていると思う。悪意がない人は“どうにかしよう”と思ってるつもりもないんだよね。ちょっとした認識のズレを“揃えよう”と思ったり、伝えたい気持ちが余りあるから少し強めの言葉で振り向かせてみたり、共感したいのに相手に対する訂正が多すぎて、AはAだと共に認知できるように“修正”しなきゃと意地になったり。可能性はゼロではないけど、もしかしたらそれは不可能な望みかもしれない。相手のためとか、本人の行く末を祈って、とか決して悪いことではないけれど、強引な感じがするのは、私はちょっといただけないな。愛を込めたら、好き勝手していいってことじゃないじゃない。笑顔になってほしい、元気になってほしい、私だって祈ることあるけど、元通りになってほしい、まともになってほしい、あーでこーでこうあるのが本来の○○ちゃんだからそうでいてほしい、とかは、本当に本人に届けるべき気持ちなのかなって疑問に思う。現実での声掛けとか、想いを表現する行動、相互コミュニケーションは人々の繋がりにとってはもちろん大切だ。時々、領域を飛び越えてというか、常軌を逸して、距離感が変なことになってる状況を見ては、胸を痛めている。人間はここ数年で“距離感”を多少学んだはずなのにね。距離をとる、全部をOpenにしない、スルーする、黙っている、というのも、コミュニケーションのうちなんだと、そういう人間もあり得るんだと、ひとりでも分かち合える人がいたらいいな。
*****
私的な今の時期のお供は断然ココアなのだ。牛乳と豆乳の消費量も比例する。眠れない夜に、と薦められることもあるが、私の場合ガツガツ作業するときこそココアが進みます。エネルギーとポリフェノール摂取かな?