こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

マネーの糧かマネーは糧か

最近お金のことを考える。稼いでないから、かもしれないけれど、実はそんなに執着もしていない。なくなったら文字通りの終わり、だと思っている。使えばなくなるのに、そこから保険料やライフライン代を払っているのだから、生きる気ないわりにとんちんかんなことやってんな、と自分でも思う。“生きていきたいなら、何が何でもやるもんだ”とがむしゃらになれる人はいいね、それだけの熱を持ったなら、生き続けるのに相応しいよ。

持ってないことを責められるのは嫌だ。お金も、センスも、気力体力も、持つまいとして持ってないわけではない。全てが完璧に揃ってなくても生きていけるけど、ひとつが大幅に欠けたらもう無理ってこともあるし、全てが万遍なくゼロに近いならそこで終了ってこともある。あれも欲しいこれも欲しいとまき散らすのは勇敢なワガママだといわれるけれど、たったひとつを頼りに突き詰めるのは美しいといわれるけど、あれもこれも、要らなくはないんだけど欲しいと言えない(欲しがっても得られない)のは、だいぶみっともないことだろうか。

シンプルに生きたいといいながら、身の回りは物で溢れて、贅沢したいわけではないが、お金と自由は必須だと信じている。矛盾を抱えるのが当然だと割り切っている口振りで、多方に分裂していく自分への不安感を拭いきれない。「みんな日々忙しくて、そんなことまで考えてないよ」とよく言われる。「ただ生きていくのみ。そのためにお金を稼いで生活を成立させているのみ。」私から見ればその人達はみんな偉い。自分を少し先の未来に生かし続けたいと思っているんだ。体に悪いことばっかしてる人も、そういう命の使い方なんだと思う。まぁそれは個人の自由だから。私自身はというと、私が、というよりは家族が、私を生かし続けようとしている。ご飯食べたかーとか運動してるかーとか何でもできるんだから何かやれーとか、本人よりも“将来”というものを気にしている。私はお返しのようにそう思えないことが、自分の欠落している部分だと自覚している。例えばもう終わりたがっている人に、生きる気0%の人に、生き続けよというのは残酷だ。続くよう、続ける気になるよう仕向けられるなら、いいのだけれど。私はそういう場面でいつも、そのままにしたら、と思ってしまう。反倫理的なこと言っているかもしれない、と毎度不安になったとしても、その発生は消えない。他人の愛やエゴに救われることは、確かにあるだろう。現状もそう。それでも、自発的な欲求とは種類が別だ。少なくとも私は、自分自身が、数年後の自分に何かしらを期待するとは到底思えない。だって、どういう態度だもん。

生きててほしいとか、生き続けたいと思うことが、“普通”だとされる世の中ならば、もう一層何も考えていないスタンスを見せている方が楽だ。わざわざ“思ってない”なんて表明する方が、誰かを傷つけるかもしれないし、望みが全く無いわけでもない。なにより、人を裁きたいわけではないから、いつもどんな場面でも応酬がうまくいくとは思ってない。ないないだらけの私に、認識の革命が起きないとも限らないしね。ただ私がお金を稼ぐことに生きる意味を見出す未来が来る、なんて予感は、うん、無いな。

 

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