こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

将来って何現象

人から「似合っている」と齎される展望も、ふと閃いた憧れも、たまたま出逢った魅力的な他者も、本当に目指しているかと問われたら、どちらに対しても全然と言ってしまいそう。心揺れたのは間違いないが、自分が“そこ”に到達できるとは到底思えないからである。なんというか、ときめいたから見上げているわけで、そこに自分を並べようなんざ烏滸がましいと、想いが大きいほど反射的に思ってしまう。いつも、どの方向にも、途切れぬ一本道はなく、プロセスがわからなすぎて、靄に靄、今の立ち位置から“笑える方へ”というのが微かな望みなのだ。

またテレビから「生きているだけで丸儲け」なんて聞こえている。「存在している、それだけでいいんだよ」なんて、本当にそうかい?そりゃあ最期が近い人、何かをしようとしてもできない人にとっては、その通りなんだけども。こと私に関しては通用しないことを自覚している。実際、周りの人からそのような言葉は掛けられないだろう。だって、「それだけでよくない」んだもの。健康で、明日息絶えるわけでもなくて、何もしていなくて、する気がなくて、何も生み出してなくて、何も支えていなくて、そのままで...私はよくても他人がよいと言うわけないよ。私自身も「生きているだけでいいんでしょ」なんて、開き直れないし。窮地から救う言葉も、窮地より手前の更地で転がっている人間には、よく聞き取れなくて哀しい。

悲観的に自虐的に聞こえるやもしれないが、本人はわりと淡々とさめざめとしているのだ。あっさり、というよりは諦め、に近いようにも思うが。前向きでも後ろ向きでも自由、けれどもとにかく動いていなくちゃ、許しを得難い、そんな世界。「ここは自分の居場所じゃない」と“外”を求める人はムズムズ動きたがっているイメージ。いいなぁ。私にはその追求が無い。どうしてだろう。満足を感じているとも思えないんだけど。

瞬間的な快楽を求めつつあると気付いたとき、もう私の底に根付いているのかと思ってぞっとした。現在より少し先の未来をちゃんと考えているつもりだったのに、次の瞬間いつでも台無しにしそうな思考が、自分にはあるんだと。感情の振れ幅が大きくなると疲れる、と思いだして、小さな揺れだけ...と意識すれば一日が細切れになった。ますます、知らない明日より今日、今、今、今、となって、“将来像”なんて描けなくなってる。

この瞬間を大事に生きる、なんて言うと聞こえがいいが、考えられるキャパシティが少なすぎるんだ。あとどっちかっていうと、過去の反復の方が最近は多いかも。それではむしろ雑な扱いだ。学習能力は重要だけども、変えられない過去のことをどんなにあれこれ考えても、今日を過ぎて明日の私には、ほとんど何も残されていないというのに。「あまりにも遠い未来のことを思いつかなくても、明日の朝ごはん何食べよう?でいいんだよ」って聞いた。“おたのしみ”を用意しろってことね。楽しみ~にならない場合のことを、教えてほしいんだけど。

 

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