なんなんだよもう
毎日消えちゃいたいと口にするのは別に珍しいことじゃない。誰もが日々のストレスに苛まれ、己を貫きつつも比較をやめられなかったり、不自由やどん底を感じたりしている。それでも消えちゃってないのは、そうならない為の理由があるから。いきたい理由じゃない。しなない理由だ。望みや意志とは別の所にある、事実としての理由。
こうやっていろいろなことを考えられるのは、勿論今生きて健康に暮らせているからだ。それでも、日々絶えず自分以外の命は失われるし、残酷なことや憤怒せざるを得ないことは繰り返されるし、可愛げのない“人間の愚かさ”を見る。(人間可愛いって思える愚かさもあるよ。)そういうのに、俄然心が萎れてしまう。なんなんだ世界は。なんなんだ世の中は。なんなんだ人間ってやつは。生命や世界に、整合性や一貫性なんて求められないのはわかっている。自分が聖人とも思わない。けれども現実として、私の気分はダダ下がりのダダ沈み。そういう時、だ。もうここに、この世にいたくないと思ってしまう。
「どれだけ自分が清いつもりなんだ」と嘲笑する声が自分の中で聞こえる。でも、違う、そういうことじゃないんだ。きれいじゃない世界にいるのが辛い、きれいじゃないと実感させられることが苦しい、きれいな世界を見ていたい、ただそれだけ。それだけのことなのに、無理。誰しもが、無理。今世でも、来世でも、恐らく。そんなことを考えているという今も、がっかりの対象だ。どんなに“きれい”が光り輝いても、それだけで世界とやらは成立しない。光のもとに影はできるのだから。確かにある“きれい”だけを見つめて、きれいじゃないものを無視することが私にはできない。そしてより強く意識してしまうね。あれもこれも、ネガティブなことばかりだ、終わらない闇だと、自ら拾いに行って、また絶望している。
そんなことみんな考えてないよ?と言われて。みんな目下自分のことでいっぱいで忙しいんだなと思った。私ももっと自分の生活のこと(例えば仕事とか家族とか生きがいのこと)にかまけているべきだけど、何かと配分を間違っているのだろう。世界と自分は同義だと憂う人は稀で、自分の手の届かないところより、手の届くところをより気にかける、それが普通だ。どこかで繋がっていることはわかっていても、直結していないならそれは、ただ空を流れる雲をぼんやり眺めているに過ぎない。ちょっとした期待も絶望も、生まれては見送る、その繰り返し。
ままならないことはいくらでも、諦められる。苛立ちや悲嘆は、何度目を閉じて何度耳を塞いでも足りないくらい。もう、すぐに、嫌になるね。「いやだ、いやだ」と言えている間はまだ回復できる。閉口するとき、ついに振り向かない気がする。健やかだった自分をすぐ弱体化させるお邪魔虫は自分自身。