理由なき事情
世の中には言霊があって、口に出し続けていれば本当にそのようになるらしい。だからかな?「私は怠惰」と言い続けているから確かに怠惰だし、「私には何もない」と思い続けているから特に誇れるものがない。無論そう“願って”はいないのだが、自覚から自己暗示、公然の事実、というように、“現実”になっているのだからきっと本当なのだろう。それでいくと、願えば・望みを口に出せば叶うかというと、それはそうとも言い切れないらしい。それも確かに、と思う。そうやって“信じる”ことも、とてもエネルギーが必要なことだ。元手が、ない。
一番救いようのない考え方はどれだろう。しにたいなら死なない理由を探し、病なら治療を施し、倫理的に反することなら諭され続ける人生、誰かの手を煩わせてでも生きたいし、誰かに迷惑かけてでも知らんこっちゃで消えたい、多様性の中のひとつであることを喜び、普通を恨んだり求めたりする。私のあー言えばこー言うに付き合える人、ほぼ出会ったことないな。ほぼ、だから該当しない人も、面倒な気分や答えに困ったことがないとは言えない人達。本当、突き放したいよね、同情するよ。どうにかしてあげたいけどどうしたらいいのかわからない、それが正解で、それが一番傷つくね。救いようのない態度の私を善にも悪にもどうにか出来る人がいるなんて、期待する私が馬鹿なのに。
「どうしてそんななの?」「なぜそう思うの?」は文字なら辛うじて素朴な疑問に捉えられるが、声色や表情や間の取り方、会話の脈絡や間柄で、責められてるように感じることがある。そんな質問をして、どういう回答を期待しているの?とも思う。私がなぜネガティブなのかを訊いて、その返答をどう扱うつもりなんだろう。「どうして」と訊かれたところで、実際答えられることは少ない。どんなに混沌とした内面を語ろうとも、私の幼少期に荒んだ記憶はないし、同情されるような生い立ちもない。どんなに一般人に見えても、また社会不適合に見えても、過去や現状の“何”が影響を及ぼしてるか、解明されてはいないのである。
トラウマになるような出来事はない。だから案外たじろぐことなく居られる。小さなリスクや些細な不快感は、散らばっているけど無視できるレベル。無視しなければやってけない、と思っている。それでも能天気に、明るく潔くなれないのは何故だろう。死に物狂いにもなれず、開き直ってパッパラパーにもなれない。ずっと靄がかかった感じ。考えすぎるときは「考えられないし考えなーい」って言っている人が羨ましい。何も決められないとき、「わからない」しか言えないときは知識と閃き溢れる能動的な人が羨ましい。自分を、心地よくさせないように言霊で縛っていると言われれば、きっとそうだ。「自身に特に希望がないならば、人のやってほしいことに従い、人を満足させ、それを受けて自分も満たされる」そういうのを選べばいい。けれどもそうしない。自分を満足させるためのひとつの手段であるのに、それを実行しないのは何故か。気がついたのは、「人が満足すると自分も満足する」その“仮定”に疑念があるということだ。“そうであればいい”ことも、自分に当てはまるとは限らない。私は私に私以外を滲ませることを躊躇い続けている。