点滅の速さで
思うことは、毎日違ってていいという。昨日好きだったものが今日嫌いだっていいし、今日嫌いになったものを明日好きになったっていい。安定を好むけど、一貫性を求められるのは、あんまり心地よくない。「違う」って思われても、今この瞬間の私はコレだ。「ご都合」と言われても、自分で都合をよくしてないと、先に進めないのだから。
「お金を稼ぐことを何かしなければ」と思う。「金がなんぼのもんじゃい」と思う。「生きていくのに何はともあれ必要」と思う。「死ぬ気がないことを生きていくつもりに変換しないでくれる?」と思う。他人とぶつかり合わない代わりに、自分の中で日々ぶつかっている。埒があかなくなって助け舟となるのは睡眠だ。急激な眠気が、全ての議論を停止させる。静かに。唐突に。永遠ではないから、目が覚めたらまた始めましょう、その時はもう既に落ちる前とは違う自分。だからさっきまで愛されていたものが、嫌悪の対象に変わってたりする。
極論だけじゃなくて、割合とか濃度でも日々刻々と変わったっていいらしい。そんなに細かく私に影響されるものはいないから。人に迷惑かけないのなら、入力も出力も独断で選んでいいという。当然、とも思えるのに、気にしすぎたり気にしなさすぎたりするけれども。本当は皆自分自身の選択と決断でしか動かないのだ。私が目一杯心配しようがちょっとだけ気にかけようが、あの子は自分の思うままに描く。私も、誰かがちょっとずつ目をかけてくれても、あの人がかなりの干渉をしたとしても、例え意に反していても、自分の選んだ方向に進むのだ。
変化にばかり注目すると、積み重ねをあまり感じられない。色の移り変わり、上書き保存の日々だとしても、目を閉じることで一種の破棄をしている。物事は積み重ねだと、言ってる傍から崩れていく。何故だろう。間違いなく、裏表や多面転換を繰り返して繋がっている今なのに、“あの日の続きの今”という実感があまりない。求められる一貫性ではなく、自分で選んだ一筋にも、揺らぎと不安がある。「それでいいんだよ」という許しと「それではダメなんだよ」という叱咤を、同時に欲しがっているようでややこしい。
実際、本当に毎日顔が違う気がするの。心もそう。「今日はそれで大丈夫」と言える日も「今日のは最悪、絶望」と言いかける日も、その間にさしてきっかけも見つからない。社会ではその連続性を見られる機会が多いから、上手くできないと勝手に責められている気になったりする。今は距離を取ってる分、少しマシかな。関わりたい人にはさ、昨日の自分も今日の自分も、あんまり鵜呑みで信用しないことをおすすめしたいよ。明日見せる顔が違うかもって、例え予告されてても、いざその時になったらやっぱりびっくりしちゃうんでしょ。