アナザーを見たくなって
自分のしたい生活ってなんだろう。今考えるなら、きっと“今”の生活だ。そうでなきゃ、現状のようにならないように何かしら抗うだろうし。それなのに時々、「どこか、ここではない所へ行きたい」と思い浮かべるのは何故だろう。
目指していたつもりはないが、今の生活が悪くないと思っているからココに居続けるのだろう。家族が居て、飢えないくらいには食べ物があって、好きに寝転がれる家があって、思いついたように筆を握れるし、音楽にも無音にも自由に触れられる。この何にも事件も起こらない日々を私は暇だと思わない。働きに出て、自分に見合わない評価をもらったり、いじわるされることを引き換えに、お金を貰うことに、納得はあったか、...昔のことはもう覚えていない。気の合う仲間・一生ものの友達ができる、好きな人と結婚する、子供をもうける、家を建てる、もう連絡も取れない同級生たちが10年以上前からサクサクこなしてきたことを、私はほとんど未経験で、その欲求があるかどうかさえ、自身でも全くわからない。いわばエキセントリックに見えた友達も、それは人生のほんの一場面で、今はあまりにも“普通”の生活をしているようで逆に驚く。(この言い方、もし失礼にあたったらごめんなさい。他意はない...。)周囲はきっと、私のマジョリティもマイノリティも受け入れてくれるだろうけど、ほんの少しネガティブに目を向けるだけで、途端にひとりぼっちな気がするから、実際ひとりぼっちになれる今の環境は、違和感がなくて意外に楽なのかもしれない。
いつまでも変わらないわけがないのはわかっている。親は先に死ぬし、この家は恐らく私のものにはならない、お金も使えばいずれ底をつくし、好きなものに一切関われない事件がおこるかもしれない。今のままってのはほぼほぼ不可能な願いで、今日今すぐにってわけではないけど、もたらされる変化に心の準備をしなければならないと思う。あと、自ら変化を起こすことも。Keepのつもりでも着実に歳をとってく自分と、このままが無理だとわかりきっている生活とその“次”、どうしたいかを考えなくては。そして決めなくちゃ。
誰もHappyな気分にしない、冷たい言い回しだとしても、私は実際思ったことを言う。試しているつもりはないけど、私の言い分の“返し”でその後の関係とか発言を見定めようとしているというのなら、そうかもしれない。怖がりなので、変化も、傷つくことも、すぐに反応できるように見つめている。でもまぁ本当の私はどんくさいし、痛みに気付かないこともまぁまぁあるけどね。“将来”って言葉が、ポジティブになったりネガティブになったりしている。そういう“よくわからないもの”の存在を他の大人はしれっと口に出すから、日々驚かされるね。みんな人間生1回目じゃないわけ?その余裕ぶりついてけないわ...。