こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

push and pull

察することができないのを開き直っているつもりはないのにそういう風に見られる。呑気そうと言われることに平然としているわけではないのに“だから”と追い打ちを食らう。私はきっと変にプライドが高いのだけど、「プライドが高いから云々」と他人に言われるほど、その人は自分のことを知ってるわけがないと思っている。ちょっとしたワガママも「他人をコントロールしたがっている実態」だと言われてしまうと、どういう部分的な感情を頼りに、他人の言うことに耳を傾ければよいのだろう。人の目を、大事にしてそうで大事にしていない。気にしてないようで重要視している。“一人上手”な雰囲気を出しておいて、独りでちゃんと生きてはいけない。不完全を許さないのは、不完全を指摘してくる人達ではなく、実は自分自身なのに。

人の気持ちを考える。うまくいってないことが多いから「(君は)考えていない」と言われてしまうけれど、いつもいつも真剣に考えてはいる。考えて、考えて、あさっての方向へ行く。わかっていたつもりの“事故”も、大いなる勘違いの“些細なトラブル”も、当たり前のように起こる。一回きりなら一番いい。仲が深まるほどにズレは大きくなる。まったく遠慮がないのも、醜態に感じる。親しき仲にも礼儀ありとは思う。しかし気を使いすぎて抑圧にも見えてくると、それもまた真意がおいてけぼりな気がする。どう思うか、どうしたいか、どうするのか、しないのか、すべて美学が基準なのかもしれない。

「まあなんとかなる」というのは私の怠惰が語ることで、自分は例外でも特別な人間でもないのに、最低ラインは越えないだろうという勝手な推測と面倒くささを伴っている。(私の思う最低ラインは死よりも向こう側だ。)ここでいうなんとかなる精神は、楽観的希望的観測ではなく諦念だ。元よりどうにもならないのだからどうしようもない、なるようにしかならない、だからまあなんとかなる、という具合だ。私がいつからこういう大人になってしまったのかはわからないが、まさか赤ちゃんの時から消えたいとは思ってないだろうし、一体成長過程のどこで諦めと怠惰を覚えてきたのか。「なんとかなる」と言ってれば表向き明るいが、その内容は「どうにもできなくても、なんとかしようとしなくても、“どうにか・なんとか”なってくるのが時間の流れと世の中だから」と覇気ゼロ、やる気ゼロの末端の言い訳なのだ。

「自分の機嫌は自分でとれ」と自立や自律のフィールドに掲げられていて、全てが自分きっかけならばもちろん、と賛同している。けれど、他人によって不機嫌にされた自分に、どうして己が責任取らねばならぬのだとも思う。自分が蒔いた種ならば後始末まで自分でやる。気の持ちようなどの自発的な不機嫌ならば、八つ当たりなんかしないで、自分を抑える努力をする。でも何かしら外的要因があったり、ぼんやりしている所に他人がふっかけてきた“不愉快”の種ならば、自分で処理するには限界がある。何より“なんでも自己責任”なのも、なんか変じゃない?と思うし。他人が傷つけてきた自分を“いい子いい子”してあげられるのが自分だけ、なんてね。まぁそれすら上手にできないから、ご機嫌直してあげられないけど。ごめんね自分。

 

察する能力 他人の目 人の気持ちを考える 自分の機嫌は自分でとるAmazonで検索