長い長い最期の挨拶
昔、初めて遺書を書いた。書いたといっても携帯メールの下書きに保存していた。子供の頃は日記として“消えたい”気持ちを綴っていたが、“誰か宛”の文章が入ったものはそれが初めてだと思う。当時の私はそれまでの人生至上最も混乱していて、不登校時代なんて比べものにならないくらいの落胆と焦燥の中にいた。(というか不登校の私は思いのほか余裕ぶっこいていて、周りだけが慌てていた感じだったな...。)もちろん“失敗”と思うものは自分の蒔いた種だったし、命をもって責任を取るみたいなことは考えていなくて、その時の状況からとにかく逃げたい、その一心だった。プライベートとバイト、がっつり切り分けられる問題でもなく、間違いなく超私情が仕事に影響しそうな状態で、全てを放り出すことを申し訳なく感じたのか、死ぬにしたってなるべく謎は残さないようにしとこうという変な気遣いが発動した。家族や仲間や恋人に感謝と謝罪を述べる一方で、キーパーソンへあてつけのようなことを書いていた。今振り返っても言い過ぎとは思わないが、まぁ記録に残すほどの人間でもなかったかなとも思う。終わりを望む理由が、今まで積もり積もったものの一斉放出だとしても、衝動のきっかけとして明確にひとつ思い当たる。そのことを“大切な人達”に知らせるか否かを考えて、当時はぼやかしつつも“対象”がいることを書く方向を選んだ。その点はかなり自分勝手だなと思う。読み手がどう思うかまで考えられていないのだから。その人たち宛としては酷い“手紙”になったなとも思う。
結果的に私は“実行”しなかったし、その遺書もどきが誰かに読まれることもなかった。一度軽く恋人に見せたかな?理解してとは言えなかった。「酷い文章だから~恥ずかしい~」とか言って切り上げた気がする。前半は感謝と謝罪なのに、後半悪口みたいになってるのが、単純に恥ずかしくなったんだろうな。当時の焦りと悲しみの中では、“対象”に仕返ししたい気持ちもあったんだと思う。別に知らなくてもいいけど、もし読んだなら罪悪感を少しは持ってほしいと。でも冷静になって考えれば、読んでほしい人に必ず読まれる保証もないし、“対象”が自分だと自覚することも罪悪感をもつことも恐らくない(それぐらい曖昧な言い回しだった)ことに気がついた。まさしく無駄死にになるとこだったなぁ、と数年後には言えるようになった。
正直、この時期に関して未だにフラッシュバックする出来事もあるし、自分で書いたものだけど見たら泣くかもしれない。数年戒め(?謎...)として保管してたけど、いつのまにかどっかいっちゃった。その後また遺書っぽいものを書く機会もあるのだが、この時のように衝動だったり、そうじゃなかったり、明るいものだったり、いろいろ試している。自分語りを続けてきて、「ここもある意味、長すぎる遺書だな」と思ったりした。