こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

誰かに話すか誰に話すか話さないのかいないのか

脳内を出力するのは必要性を感じてだと思うのだけど、人に話すのはどうかしら。私には誰かに話を聞いてもらうことが、必要な気もするし、別になくても問題ない気もする。状況によって、はもちろんそうだけど、では今はどうだろう。感情移入せず、坦々と聞いたことを処理してくれる、外付けハードまたオペレーターのような存在。私がしてきたこと、してこなかったことをどう評価するだろうか。

昔、現状どうしようもないと思い込んだとき、“お知り合い”ではダメだと思ったとき、赤の他人に助けを求めたことがある。それは今のように不特定多数に吐露するのとは、また違う言葉で、なんなら少し取り繕って、自分を説明しに行った。専門家だから、近所だったから、たまたま見つけただけで、自分が選んだ感覚もなかった。そりゃあいきなりプライベートを掘られたくはないけれど、私が眠れないんですと言っただけで、わかりましたと薬を出されて終わった。帰り道には実際に「なんじゃこりゃ」と口に出ていた。眠剤を前にしてやっと私は、「あ、話を聞いてほしかったのかも」と思った。行った本人がまるで目的を定めてなかったのだから、他の人が何かを組み立てようとしたって無理だ、しかたがない、そう赤の他人なのだから、と服薬の結果を知らせる気はさらさらなくなった。その後はどこにも行っていない。眠れなかったこと、“浮いた”感じがすること、ネガティブの極みみたいなところ、覇気がないところ、これら以外も全部含めた自分のことを、私の口からちゃんと伝えられた人はいないし、言語化が難しい私の感覚の話を、冷静に聞いて坦々と処理してくれた人もいない。この世のどこかには、理解したり、名前を付けたり、解決に導く人はいるのかもしれない。けれども出会ってないし、そもそもその人が本当に必要なのか、今の私にはあんまりわからないのである。

子供の頃、なんでも病気や障がいにするな、といわれる環境だった。幼少期から大病はしていないが虚弱だったため、その身体がデフォルトで生きてきた。その上で多少の風邪を引いても、元々「しんどいしんどい」と言う子供だったために、それは+α=病気のしんどさではなく、元からそういう(しんどく感じる)身体なんだと思っていたし思われていた。生理で学校を休むことも、あまりいい顔されなかった。「生理は病気じゃないからね」病欠じゃなくてただの欠席扱いだと念押しされたようだった。「はあ?」と思いながらも何も言えない子供だったし、大人になっても「病気じゃないんだからちゃんと自己管理してよね」と言ってくる周囲に、「そうか、そうなんだ、ふーん」とスルースキルを鍛えられてしまった。現在身近に発達障害とされた人間がいるからか、私が少し自分の“欠如”について話すと、比べてあなたは全然問題ない、普通、ただの性格、と諭される。なんでもかんでもそういう症状や障害特性に結びつけるな、とはっきり言われたこともある。それは確かにその通りかも知れないけれど、じゃあこの苦しみや悩みやモヤモヤは何なのだと。専門家は病気や障がいしか診ない、身内はそれは性格だから手立てもなにもどうこうすることではないと言う、ということは、理解する人、処理できる人、伝える相手、なんてものはそもそもいないのではと考えている。いない人を求めても虚しいだけでは?と。求める必要性をやっぱり疑問視し始めているね。

 

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