こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

未だ来ぬ先の私

「夢も希望もないわ」とは、失意の元にいう言葉。けれども私はその重みを削り飛ばすかのように頻繁に思う。だって事実だし。二択問題なら嘘は吐けない。それでも時々、“普通”っぽい私が現れて歌うようにこう言うの、「夢見るのはタダ」。たらればを多用するほど私は歳を取ってしまったの?それとも、まだたらればと言えるくらい未熟で見知らぬ未来があるのかしら。些細な望みから壮大な夢まで、叶ってない時点ではどれも同等の“破壊力”。

テキトーに大雑把に構えているようで、とても心配性なのだ。口ではどうにかなるさと言いながら、いつも荷物はとにかく多い。いざという時のために、と用意周到ではなく、必要か否かの正確な判断ができないのだと思う。慌てたり焦ったり怖いと思うことが怖い。ならば、念の為 の枕詞でその場しのぎでも安心を得たい。根拠、も安心材料のひとつだ。だから根拠のない自信がある人は、憧れる反面怖くもある。結果が良ければOKではなく、その過程の緊張感が疎ましい。前にも少し書いたように、年々どきどきハラハラに耐性がなくなっている。また時が経てば変化するかもしれないが、あまり起伏のない方が“安心”と今は思っている。

私が積極的に変化を求めるようになるには、どういうきっかけが要るのかな。これが安定だと、日々安心を繰り返していると思っていても、実際、四六時中穏やかであるとは言えない。むしろ不穏に感じることが多いからこそ、これを書いているのではないか。劇的な出来事や心揺るがす衝撃は滅多にないけれど、その代わり同じように繰り返す毎日がある。変わらない日々というのは今ある不穏や苦しみもそのまま継続するということだ。できる限り多くの幸せや穏やかな心を望むなら、それらの暗雲を少しでも断ち切れるように、私自身が変化を求めて動かなければならない。今のじゃない“私”を望むなら...。でも今のじゃない“私”って一体...。

変わらないと思っている日々も一日ずつのループではなく、似ていても少しずつズレている。昨日と今日は異なる日、同じ軌道は辿れない。私の場合、自身の“何もしなさ”によって、毎日じりじりと焦げ付いて弱くなっていく。少しずつズレて、少しずつ蓄えて、少しずつ衰えて、少しずつ失って。それは決して望んでそうしているわけではない。“望みなく何もしないから”そうなっているのだ。緩く願うのは変化も起伏もない延々とした時間。しかしそんなの絶対に無理だって、こんな私でもわかっている。

現状を、文字通り“維持”することはできない。放っておけば緩やかに、しかし確実に“下降”するだけだ。何をもって“下降”とするかは、まだちゃんと説明できないけれど。維持を望むにしろ、唐突な変化を求めるにしろ、やっぱり何かしら奮起や努力が必要なのだろう。自分は、果たして閃くかしら。急に夢語りだしてもそれはそれでおもしろいけれど。重い腰はどういう手で上げられるのかしらね。

 

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