こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

どちらともいえない世界をしたたかに

私は心のどこかでドラマティックに憧れていて、だけど同時に刺激の連続には拒絶反応を示す。少しの挑戦も冒険もしなければ、事はドラマティックになんか展開しないのに、ただ夢を見ている。ハイリスクもローリスクも、自分にとってはただ起伏のある刺激でしかなくて、それらに振り回されることを端から拒んでいるのに、ふと唐突に必要なんじゃないかと思いつく。いくらか人に話すと、どちらにしろ背中を押そうとしてくれるのだ。どっちに転んでも、君の人生、応援する、と。嬉しいような、残念なような。最後の一押しを他人に期待するのは何ともずるい気がして、散々甘えて生きてきた自分をさらに極甘に仕上げてしまう。

芸能人や有名人の世界では、したたかに生きねばというけれど、それって別に一般社会でもそうじゃない?結局、息できなくなってあっぷあっぷになった者から脱落していく。そこにどんな美しくいじらしい過去があったとしても、一発逆転劇を自ら起こしたとしても。今を曝け出した時、もう爪先ひとつでも見えていなければ、まるでなかったことにされる。ふと掬い上げられるのは、居なくなって何十年後だったりね。一般のこの世界だってそうだよ。“適合”があまりにも強敵でさ、戦うのも無理なのに共生もできない。「あんなに普通にできてたじゃない」と過去をつまんで比較されるイメージ、どうもまっすぐに届かなくて。“らしさ”を担ぎ上げる空想世界、“なじむ”ことを遠回しに強制する現実世界。賢く、したたかじゃないと、“平気なフリ”もできないし、呼吸の仕方もわかんなくなっちゃう。

人生や日々の生活の、いかなる質問に対してもはっきり答えられない。幸せですか?楽しいですか?そうではない、ならなんなのですか?それはそもそもどういうことですか?5段階の選択肢なら、私はいつも真ん中の“どちらともいえない”を選ぶような人間だ。当てはまる言葉がないときは、そうする。いつか、ピタッとハマる答えが出てくることを、もうずっとずっと待っているんだ。

胸の内を語った後、いつも「何を偉そうに」と自分に思う。世の中の多数を多数だと決めつけているし、自分のことよくわかってるような顔して...ホントは全然わかっていないくせに。「世界」というけれど、私が知っているのはただ“知っている限り”の世界だ。「みんな」もこれまで出会った人・もののこと。知らないものはとことん知らないし、知っているものは―その中のごく一部に微かに触れている程度―ほんの少しでしかない。それを大きな、広義のように言いがちなのは私の悪い癖だと思う。でもどうか、インナーユニバース的な話なら、できるだけ見逃してほしくもある。私の目は外に向いているようで、見てはいないのかもしれないな。

 

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