想定外にlet me live
前々回、「日常系のことを公にするのは~」とか謎目線で書いていたけれど。これから先ここに、もしかしたら私の生活のこと、現実に存在する物とか場所とか、出てくるかもしれないからここに予防線を張っておこう。脳内出力、とは言いながら、私も物体として現在進行形でここに存在してるから...記録=日記も間違いではないだろうと。とはいえ、“素性”を知らせる必要性も感じないし、「本日は晴天なり」とか毎日の体調とかは、私が個人的に管理できればいい情報だと思うから、そういうのは出てこないと思う。恐らく今のような状態で続いていることだろう、しばらくは。
覇気がない、生きる気がなさそうと言われる私だが、実は自己顕示欲とか承認欲が強いんだと思う。そうでなけりゃ、こういうブログとかSNSとかやらない気がするんだよね。まぁ、向いてるかどうかは別として。単純にタイピングの練習としてじゃないこのPCでブログを書く行為も、人の目を気にしてる要素がある。いろんなSNSに手をつけているのは好奇心だけじゃなく、“自分とそれ以外を繋げること”を模索し続けているからかな。「独りでも別に」みたいな匂いを出しておいて、人間はひとりだと生きられない(いや本当の話)と思って、「人間である自分を人の目に晒しておこう、そしたらまだ大丈夫」という魂胆。「自分が現実にいる」という証明、それは自身がどんなに大声で叫ぼうが、血を流そうが、独りでは“思い込み”で済まされてしまうことで、身体以外の環境があって、他者が関わって、やっと自分でも信じられることがそれだから。
いくらでも湧いてくるとか、放っておいてもやってしまうっていうよりは、絞り出してでも表現しないと、書き残して置かないと、みたいな焦り?がある。その点、自然ではないのかもしれない。拙い知識、未熟な思想でも、自分の頭の中だけで問答反芻は可能だ。どんなに低レベルでも人に知られることもない。それを良しとは思えなくて、(それでは生きていけなくて、)なんとか自分外、他者、外界にアクセスしようする意識が、自己顕示欲と承認欲を促している。唆しているという方が感覚的には近いかな。“外”と繋がるために、人に自分という存在を認められることや「自分はここに居るんだ!」と叫ばせる宛先を、求めるように仕向けている。もちろん、これらも全部私の“中”で起こっていることだけども、自分の“出力”がすべて、自動的、天啓的、天才的、自然的、ではないことは、私の思うところの事実。私という人間は、“本当のありのまま・思うまま”では、勝手に注目もされないし、他者の記憶にも残らない。そういう自分を放置することはできなくて、生まれてしまった欲を満たそうと“吐き出す”行動している。そうやって自分を生かそうとしているんだなと、自分のことながら少しなるほどと思った。