表現と記録と利用
ほとんど誰も見ていないであろうSNS、なのにいつしか思った通りには投稿できなくなった。できない、というと何か障害があるようにも聞こえるかしら。そういうわけでもないが、昔よりは頻度も衝動も減ってしまって、“なんでも”でなくなりつつある。基本的なメンタルは強い方ではないので、自分の零した発言が価値ゼロなのはいいとして、思いも寄らぬ方向から見知らぬ火箭が飛んでくるのは、わりと怖いと思っている。あとトラウマ的に以前のコミュニケートトラブルを思い出して、SNS投稿上の“仲良し”は難しいなと身構えている。
アイデアも根性も無いけれど、表現は好きだ。記録記録と言いながら、一時的な満足だとわかっていても、写真も撮るし文章も書く。たまに絵も書くし工作もするし歌も唄う。どれも特技でもなければ、才能でもない。仕事にもならないし、そもそも身についてもいないし、鍛錬しているわけでもない。真剣みがない、本職の人に失礼と言われても、何の役にも立たない身勝手な作業だとしても、脳から手から出力される表現が好きだ。ただ好きだと言うことは、別に悪くはないでしょう?
Twitterにオンタイムで感情を呟いても、それはただのメモ。ハッシュタグをつければ、多少共感を求めているけれど、別に何もなくてもいいの。いつからか“誰かに見てもらって成立”って考え方を変えようって思った。期待しない。まだ完璧にはそうできてはいないけれど。“誰かの視線ありき・評価ありき”で価値を見出さない。写真も言葉も、私が思った・考えた→それらを出した、それで終わり。人の反応ありなしや規模まで含めて完成、としちゃうのは、“自分”の範疇を超えていると思う。
以前と矛盾していることを言っているような感じもするけど、改めて極端だなぁとは思うよ。自己と他人の境界が曖昧だなぁとなる所もあれば、自分のフィールドとそれ以外をきっちりしたい所もある。ただ、ツールは利用するものだから、ツールに利用されるような感覚は避けたいの。SNS攻略的な物言いも、自分が攻略してやるって感じなんでしょうけど、実は攻略されているというか、適応するように求められるように、自分を変化させていくんだよね。別に悪いことではないけれど、投稿もフォロワーもいいね等の評価も、質より量に囚われ出すと、なんだかツールに踊らされてる感が否めない。もちろん、多数はポジティブ要素、それはわかる。多少の羨ましさもある。多数が正義になって、承認欲求が満たされて、納得が得られるなら、それはそれで“良い”利用方法なのかもしれない。けれども「いいねが貰えるような投稿」「多くに愛される自分」を求めて、それに沿ったものしか表に出せなくなったら、それは果たして“自分”の範疇なのかな。私はそこに躊躇いを感じる。あとただでさえ悲観的だしね。「いいねなんかつくはずない」「能動的に見る人いない」とかって。見てもらえるのはありがたいけど好かれるために頑張れない。頑張れないが頑張らないになったら、また思った通り発信するようになるのかもしれないね。