こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

素敵と記録

前回は、かなり自由に、わりと局所的な話を書いてしまったけれど、まああんな風なのが本来の目的な気もするし、あれはあれで良しとしよう。私の話は、どんな場面でも、大衆向けではなく、ごく一部の、内に内に掘り進む形だろうから。いいな~こんな文章書けたらな~と思うこともあるけど、私は彼らと同じものは書けないし、真似すら上手くできない、倣える程の力がないのだから、仕方がない。勉強といえるほど、読む書くの数をこなしてもいないしね。

憧れには程遠い。というかそもそも、憧れなんて感情、自分にはあるのか、という自問。夢見るのはタダならば、どんな行動の先にも、目標や憧れを掲げたっていいと思うけれど、只好きという気持ちとは別に、“それを目指す”ということを何かしたことがあるだろうか。うーん。いつも“世界が違う”と思っちゃうからなー。山ならば頂上目指して登る...とか、階層違いなら上へ上へ飛んで...とか、目指すものに近づく行動っていろいろあるけれど、生きている世界が違うとなるとその“隔たり”をそうそう簡単に越えられないから、目指すって感情になりにくいんだよね。自分に悉く自信なくて、対象をただ尊いとしか思えなくなるってとこもあるけど。

凄いな、素敵だなって思う度、格差を思い知る。足つく地面が同じだとはどうも思えない。その差を、溝を、埋めようと努力、に至らないあたりが、自らを怠惰と呼ぶ理由だと思う。活動より睡眠を選ぶ。どんな条件においても“間に合わない”と感じている自分が、憧れにも目標にも届かないから元より追わないと宣言する自分が、それでもする行動とは何だろう。無目標でも無目的ではない、その理由はただの生理現象に近いのだろうか。

この場を借りて私が書くことは、世の中のたくさんの執筆者さんが展開するような、豊かな表現や創作やありがたい情報が溢れているわけではなく、頭の中のものを排出し並べ確認する作業のただの過程であるから、そもそも目指す場所なんかないのかも、それが当たり前なのかもしれない。作品や商品ではなく、引き出しの整理整頓の様子だから、比べられるものでもないね。

大体の私の出力はそのように成り立っている。ブログもSNSも発言も行動もそう。「これ、どうですか?」と評価を覗っているわけではない。でも時々、私の垂れ流しの中に才や価値を見つけてくれて褒めてくれる人がいて、それはとても嬉しいの。私は消耗品ではない、とする警戒心が同時に発生したりもするけれども。もっとも、全ての発信は他者にとって無関係にも消耗品にもなり得る、という気持ちもあって(自分が商品であった頃の馴れ)。そういうつもりでないものを何かしら評価されることは存外喜ばしいことだな。ありがたいと思う。垂れ流すただの“正直”は風のように通り過ぎるだけなのに、気に留めてもらっただけでありがたいよ。

いつまでも言い訳ばかり考えているから、こんな文章の連続になるのかもしれないな。誰に弁明しているのだろうって、毎回思うよ。何にも邪魔されていない自由を、どうしたって持て余しているっていうね。毎日自己対話を繰り返していたら、自己完結のやり方だけ上手になって、他人を許せなくなるって、最近少し怖い。片鱗が見えている気がする。

 

 

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