オミナエシ
毎日書こうとか忘れずにしようとか、自分との約束を守れない。守れたことあるかな?大概は、他人との約束、社会でのルールの遵守とか。それらは自分基準の最低限、守るけれど。自分の言動は信用できなくなるね、決め事も信念も今日までの記憶も。
なんでもいいから続ける、と思ってやっているけど、事実、抜けたり怠けたりして、“毎日”の分をなんとか追いつこうとしている。書くことが、考えることが、決して嫌いなわけじゃないのに、“今回”はどうしようか、“始まり”はどうしようか、どうなったら“完了”としようか、なんでもいいと言っているが、どうでもよくはやれない、“出力”の難しさを毎度毎度感じる。
前回が今までで一番怒涛、というかたくさん“喋った”ものになったなと思う。やっぱり、経験が長いこととか、考えたという事実が新鮮なものは、書き出すと止まらないぐらいマシンガンで流れ出す為、熱量多く見えるし、まとまりは限りなく無い。当初言っていた通り、誰かに何かを伝達、というよりは、中身を外に出して満足っていう方法。発散の手段としては、今のところある程度は機能しているかな。
みんな何書いてるんだろう?と時々気になって、探索でもしようかなと思うけど、星の数ほど膨大な書き手さんの中から、一期一会を狙いに行くのも無謀だし、何より掻いて掘ってときめくまでの私の気力が無いのだ。ブログをもっと熱心にやってた時は、読者さんで繋がるのも楽しかったし、わりと追いかけてもいたけれど、最早リアルな体力もついていかないかも。今、TwiもInstaも少しそのケがあるように思っているんだよね。見られてる人数が少ないのは気にならないの。見られる為のものを書いてないから当然って感じだし。でもフォローをして、それはただのリンクじゃなくて、公開されているものを“ちゃんと”把握したいって思いつつあるのが、なかなか自分の首を絞めてると思う。
ただ繋がりたかったんじゃなくて、足掛かりとかでもなくて、私はあなたを知りたい、何らかを吸収したいという意志の下、フォローしているのですよーって。本人に別に伝えないけど、数より質だと、自分自身に宣言している感じ、かな。(それでも数は増えていくけども。)でも、単純に一人が一日一投稿したとして、500人フォローしてるとして、自分が“納得いくまで”投稿されたコンテンツを把握するって、現実的に無理じゃない?って自分でもわかってる。それでも魅力的な人間、好きなもの気になる事は山ほどあって、初動は欲のままにしちゃうから、後で達成し得ないノルマを自分で自分に課すという緩いS化とジレンマのM化。
恐らく、しばらくしたら唐突に、読者登録したり、いろいろなフォローを増やしたりすると思うんだけど、もしそれで満足いくような生活ができているとしたら、よっぽど暇か、見る読むの処理速度が劇的に早くなったか、だよね。どっちも非現実的だし、前者はなるべく“無い方がいい”こと、後者はそもそもそのスキルどうしたんだよって話。ときめきと苦しみのバランスを、一生考え続けていく気がしてきたな。
いつもいつも、いろんな人間を知りたい、いろんな思考を知りたいと密かに思いながら、知らなくても生きていけるし、満足なんてありえないし、知っても知らなくても人は死ぬしって思ってる。“出力”だって結局、自分の望んだものになっているかすらわからない、他に何の影響もないもの。つまりは宙ぶらりんだけども、飛べるわけじゃなし、様子を見るしかなさそうね。