only somebody
昨日「他人の気持ちを考える」「想像力の欠如」などの話をしたから、矛盾に聞こえたらごめんなさい。今回は「結局本当のことは本人にしかわからないんだよ」って話。というのも、とかく今は時代の流れか公私の境界が曖昧で、以前は全く知り得なかった“プライベート”がSNSでどんどこ明かされている。(望み・望まず含めてね)それによるハッピーもストレスも秒単位で生み出されていて、例に漏れず私もそれらに踊らされたりアテられたりしている。事が起きればそこに感情が生まれるし、立場とか関係性とかすっ飛ばして何か言いたくなる気持ちもわかるの。でも、人間模様を見ていると、なんだか“暴走”しているような場面に出会すようになってきて、タイミングかもしれないが無意識に顔をしかめている。
SNSもテレビのニュースも、普段の人との会話だって、良くも悪くも私は基本「見たまんま、聞いたまんま」を受け取っている。冷酷になりたいわけではないが、冷静ではありたい。結果冷酷だと人に思われたとしても。想像はするよ。自分も他人も“同じ人間”で、けれど100%合致はありえない“違う人間”で。相手は今どう思ってるかなとか、もしかしてこうだった?とか、理由とか背景とか、表に出されていない情報は、そりゃあ想像するしかない。自分の中の“足りない”感覚を補完するためにね。でも、それを本人やメディアや自分が同調してほしい人に、一方通行で投げかけるのは、ん?なんか変、って思っちゃう。「きっとこうだったんですよね!?」って本人に言うの、そんなつもりないんだろうけど「正解だろ!?と司会者に詰め寄るクイズ回答者」みたい。「~~だろうか。」は余韻を残した疑問だけど、確信も証拠もないのに「~~だろう。」と言っちゃうのはどうなの。え、たぶんとか付けないの...誰もそんなこと言ってませんよね...ソースを出せ!ってなっちゃう。
「本当のことを聞きたい」「全部を知りたい」って気持ちはわかるし、好奇心を誰も責めることはできない。知ることを拒否する自由があるように、公にすること望まない自由もあると私は思う。文字にされたら、画にされたら、形にされたら、そこにあることが“表現された”全てだと思うよ。“裏”や“奥”や“焦点の合っていないもの”が、自分は中身を知らないけれど“存在はしている”ということを覚えおくだけでいい。結局、本当の全てのことは、本人しか知らないのだから。(もしかしたら本人だってわからないことかもね。)あれこれ詮索して、勝手に想像を膨らませて、そこまでならまだ妄想遊びだけれど、自身の発言すらコンテンツ化して、人を攻撃したりデマを作ったり、“本物じゃない本人”を表し始めたら、それはもう「想像力豊か~」では済ませられないなと思う。他人の気持ちを想像する、相手の立場に立って考えるというけれど、必要以上に燃え上がって暴れてしまっては、想像力を使った先の本末転倒だ。他人の気持ちに“寄り添う”、相手の立場に立って“思いやる”のが、子供の頃に言われた想像や考え続けることの目的、だと思い至った。
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