こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

生まれて育って生き延びて死んで

今、死ぬことは怖くない。それより、“こんな”気持ちで、いつまでも生き永らえることの方がよっぽど怖い。老衰して、ままならなくなって、それでも“息がある”と言われる状態が、例え自分がわけわからなくなっていたとしても、今繰り返し想像する恐怖だ。もちろん自分がちゃんと老衰するかどうかわからないし、当初の予定ではそう遠くない未来にそんな風に悩む暇なく終わるという考えだったのだけど。失うことより、失っていくことを認識できている方が恐怖だよ。

“どうなるかわからない日々だからどうにかしなきゃ”ってのはいやにわかる。でも具体的に何をどうやって?机の上にも転がってなくて、パソコンの中にも入ってなくて、どんなに画面をスクロールしても出てこなくて。外の世界に何かあるとして、どこへ行けばいい?囲まれてる時は皆自由になりたがるけど、自由になると途端に惑うよ。まぁ全員とは言わないけれど。孤独なら孤独なりの戦い方があると思うけど、その前にまず自覚しなきゃならない。私には、それも足りない。

今日はとあるツイートにモヤモヤした。それに対する引用にもいろいろ思うところはあるけれども、私の思考の助けになるかも、とも思った。少し前に、「親は優しくて、私は恵まれてて、でも私という人間は冷たくて...」という話を書いたが、それ関連の考え事。大前提として、全ての個々人の人生や生活が、全ての人に対して“配慮”するようにはできていないということなのだけど、何か一つを「素晴らしい」とすると、それ以外は「素晴らしくないということだ」とするのはやっぱり極論だとは思う。ポジティブな言葉、表現が、必ずしもすべての人に“ポジティブなまま”伝わるかはわからない。何かを発信する者の義務として“配慮”や「空気読め」は必須条件として求められるけど、根本的な“問題”を理解せずに、「表現の自由」だの「無意識または悪意がない」だの絡めてくると、何か別の所へ話はすり替えられているような気もする。「やっぱり」なんて言葉をつけるのは、ただ単に軽いか、自分の認識の“早さ”に対しての自慢か、プライドの高さか、なんて嫌味を含めた見方をしてしまうのだけれど、その人が純粋な気持ちで述べていることも否定はできない。その上で、“無邪気な無知”って怖ぇ~って思ったし、知らない世界をわざわざ知ること、交わらない世界を無理に交わらせることを本人が望まないのであれば、もうそっとしておくのもいいかなと思った。今回のそのツイートの返信の中で「傷ついた」って言ってる人がいたから、それが本物かどうかは置いておいて、思いつきをいくつか。「親ガチャはずれでも、育ちが云々言われても、過去に何があっても、今生きているあなたの命はひとつ、その魂が素晴らしい」「愛されて育ってない人間が愛されるという保証もないが愛されないという証拠もない」

 

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