こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

どれこれME

「どうして君なの」と言われることは案外少なく、唐突に投げかけられてびっくりする。「どうして君は君なの」というような、哲学的な質問でないことはわかっている。それは「私である必要があるかどうか」だったり、「君は何故にそういう名前でそういう姿でそういう物言いで」という意味だったりする。理由や説明を求められても、沈黙でしか表現できないことも、大いにあるものだ。

私には、どうも自分でありきることが難しい。自分の名前も未だにしっくりきていないし、昔から自分の成績表見ても、履歴書見ても、確かに私のものとして手にあるのに、内容に対して“これが私”と心から思えない。「こんなんじゃなーい!」と拒否っているわけではないが、どれも(仮)な気がするのだ。周りが私を“本人扱い”してくれてるから、今の立場があるわけで、自分が自分である“根拠のない自信”というのは、他のものに対しての自信と同様、あまり無い。自分で選んでいないものは、しょうがないとも思う。このカラダで生まれたこととか、名前とか、他人が下した評価だって、私は“それで”と与えられただけで、自分で自分をコーディネートした結果ではない。“皆がコレを私だと言うから”と甘んじて?受け入れている節もある。あまり昔の記憶が無いから...というのも、もしかして関係あるのかな。

いつもHN等を決めるとき結構悩むんだけど、結局のところ「あなたの呼びたいように呼んで」って思ってるな。本当は名前なんてなんでもよくて、呼んでもらえるような人間になることの方が重要なの。“私”を意識して呼んでくれるなら、がんばって感じ取るから。あくまで私の提示したものは一例なの。もはや毎度しっくりこなさすぎて、名前も姿もなくていいんじゃないって気分になるけど、精神のみで他者と関わる術は持たないから、やっぱり(仮)でも、カラダも名前もこれまでの人生も、あるに越したことはないね。

単純な疑問として、名前の由来や経歴の理由を訊かれても、私はよくわからないと答える。細かい説明は面倒だし、何より明かす意味がないと思っている。顔だって見たいように見ればいいし、声も聴こえた雰囲気で覚えてればいい。好きなように呼べばその人の中での私が出来るから、それを“私”だと認識してくれればいい。“本当の私”などの幻想を思い浮かべなくていいし、追ったり掘ったりするのは労力の無駄、だと思うよ。だって私自身がよくわからないんだもの。「どうして」の答えを持ち合わせていない。簡単に言いたいときは、思いつきって言う。全ては思いつきだよ。生まれてしまったし育ってしまったし変わってしまったし固まってしまった。「自分探しの旅なんて意味ないよー自分はここにいるのに」と言いながら、「自分はここにいる、か...?」と呟くほど不安定だ。

 

君は君 僕は僕 私は私 自分の名前 なんでもいい 本当の自分Amazonで検索