こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

居るなら彼方

「あの人に幸せになってほしい」という思いも、過度な押し付けになることがある。どうあれば幸せと感じるかは本人次第なのに、こちらの理想像を当てはめて正誤を判断するのは些か傲慢にも思える。“人の幸せが我が身の不幸”になる場合は、嫌味のひとつも言いたくなるだろう。人が己の信じる幸せに突き進んだ結果、周囲に迷惑をかけたり不快感を与えることは、はっきりと善悪を付けられない、妥協が必要な事情なのだ。皆が自由に生きるというのは、やはり現実的には難しいことなのかもしれない。幸せになる自由、不幸になる自由、昂る自由、悲しむ自由、傲慢にも敏感にも無関心にもなれる自由。共存は、笑ってばっかりはいられないのだろうな。

どんなときも美しき等価交換が成立するわけではない。苦労に見合った報酬、暴走によって受けた傷、奔放への代償、固執することによる不都合、完璧でないことの方が当たり前で、いつも満足いくものになるとは限らない。「過去、沢山の不幸を被った、だから未来ではどうか幸福のみを」と願うことは、決しておかしなことではない。私だって、事あるごとに“せめてトントンになればなぁ”と思っている。けれどもそれは、願いや作戦や努力や運だけで、どうにかなるものではないと思う。自らの望みを叶えるために邁進していく人を誰も止められない。人間の中で生きていく限り、自分につく傷も周りに与えた傷も、ずんずん突き進むその人自身に責任がある。だからこそ、等価交換にならずとも行くんだろう。そして行くべきだ、“そのまま”で生き続けたいなら。けれども―繰り返しになるが―、正誤も善悪もはっきりさせられない、あちらを立てればこちらが立たずとままならない、自分にしろ他人にしろ妥協は必至という状況の中で、何を幸せとするかは本人にしかわかり得ないのだ。例えどんなに心通わせようとも、最も傍で息をしていようとも。

意図せず世の中のコンテンツとして扱われても、自らを消費されに行って、削られて帰ってくるなんてこと、する必要はないと思う。望まない状況に生まれて生きてきてしまって、他人の人生にいつの間にか関連してて、コンテンツ化していることは、恐らく皆あること。それはそれで放置してたらよくて、何の能動的な目的もないのに他者のフィールドに自ら参加しなくていいと思う。目的無く、または意に反して、消費され続けることはしんどいよ。喜怒哀楽、どこに振られても消耗する。もちろんその場合の“消費者”にも問題はあるけど。長い目で見ても己に関係なさそうなことは、何億光年向こうの星、地球の反対側の砂粒だと思って、自分の人生に無理矢理挿入しない方がいい。

 

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