マイナーは計り知れない
(少し暴力的にいうとするならば、)普通の女性で、“女の子かくありき”と育てられそんなに抵抗感も持たず、恋に恋してみたり、男性の中からタイプの人を発見したり、女友達と共感し合ったり、「女らしい」を求められながら自分でも「女だしね」と納得したり、“そんな感じ”のコンプリートをしている人間も確かにいるだろう。なんにも悪いことない。しかしそれを“当然”とか“通常”とか“平均”とか“常識”だとまとめられると、その“枠”に当てはまらない人はたくさんいるのではと思う。自分があぶれ者で特別と言いたいわけではなく、むしろほとんどの人があぶれているというか、既定の型から外れているのではなかろうか。
対性、対恋愛、対欲求についての価値観は、本当に様々だ。ここは自分語りのオンパレードなので、一般論少々と私についてしか表せない。世の中が思っている通りの“女性”を生きているのかもしれないし、世の中が思いも寄らぬ思考形態を私が持っているのかもしれない。以前も書いたような私の考え方がメジャーかマイナーかわからないけれど、どちらにせよ“そう考えている”ことに変わりはないのだ。
昔はものすごく恋をしている気だったし、依存のケもあった。性愛と恋心は直列つなぎだと思っている時期もあったし、それが“愛”なんだと格好つけている時もあった。「好きな人がいないと生きていけない」と実際口にしていたし、自分の「女」を利用した行動もたくさんしてきたと思う。それが、ここにきて、あの頃の熱意はどこへやら。
近頃の私は、恋人がいるけれどその人のことが好きだけれど、性欲はない感じ。そもそもこの“その人が好き”は恋愛なのか愛情なのかさえ疑いを深めている。ともすれば過去の方々も。恋愛中だの私は誰々の彼女だの言っていたけれど、それらはすべておままごとで、私は本当に恋心を持っていたのか、今更ながら疑わしい。行為は身体の都合だけで“好きだから”は本当は存在しなかったのではないか。今の私と過去の心情を比べてもしようがないけれども、“私”は本来“この点においてどういう人間なのか”をわかっているようでわかっていなかった。
生理で長年苦しんできて、その現実を受け入れざるを得ない日々が、私の性自認を促した。生物学上、雌であることは確からしい。好みも考え方も“女性ゆえ”と謂れを持たされることもあるだろう。しかし時々、スムーズにいかない事象もある。世の中でジェンダーバイアスと呼ばれる問題やその関連。思考の一時停止やスキップが起こる。他人様を取り巻くモヤモヤにも首を突っ込みたくなるし、私自身にも。生まれた時から性別による色分けを刷り込まれている世代ではあるけれども、赤いランドセルがいいと言った男子同級生が咎められる様を見たときの悲しみ、黒モデルを探しに携帯ショップを訪れたとき真っ先にピンクを勧められた私の複雑な心情、今でも思い出す。私は確かに人間の雌で、世間で女性として生きているけれども、女性だからこそ手にしているもの・女性だから持ち得ないものも確かにあるだろうけども、それが私を構成する全てではない。女性的・男性的・中性的または無性的、それらは単に特徴である。「女性だから繊細」ではなく「○○さんが繊細」みたいなことがまだまだたくさんある気がする。
「それはおかしいわぁ」と言われて傷つくことを恐れているから、既成概念が次々壊されて、「なんもかんもおかしくないし、全部アリやし、みんなそのまんまで生きていけるで!」という世界を夢見ているのかな。私の感情の振れ幅や行動指針が変わっても、全部ひっくるめてALL OKなら“大丈夫”だと思いたい、誰かにそう言われたいのかもしれない。