ある炎上についての思考メモ。中編
前回からの続き。
あまりに延々と“前置きのつもりだったもの”が膨張してしまった。うーん?明らかに私の手癖なのだが、まー自分で読み返すぐらいだし、吐き出せればいいか、とりあえずは。
たまたま燃え始めぐらいの時にTwitterで見かけた今回の件。“悩み相談”を読んで、とても心がざわついた。私も思春期にはそれなりに悩み事はあったと思うが、生まれて14年、そこまで多くの人間のモデルケースを知らない中で、こんなに胸を痛めているということに切なくなった。丁寧に書かれた文章からふざけた様子は微塵も感じられず、大切な友達を本当の意味で大切にしたい、自分にできることは何があるのかと真剣に考えているのだなと思った。
相談の内容には、虐待、未成年保護、性的同意、避妊、家族、恋愛、友情と様々な情報と問題が交錯しているのだけど、そのひとつひとつについては今は語らない。そして部外者である私には恐らく語れない。冷たいようだが、私自身が個々の事情に手を出せる状況、または立場、そして値する人間ではない。相談者、そして当該の問題の渦中にある人々に寄り添えなくて申し訳ない。ただ無視はしたくないと思う。事実としての問題に危機や恐怖を感じている。このたびの“相談”で、もし相談者さんが“救い”を感じられなかったのであれば、これは失敗として手放し、どうにか救いのある方向へ導かれて欲しい。(不勉強の私には今のところ無理だが)他の有識の方、優しい親切な方がアドバイスを投げかけているのも見た。助けを求めた相手じゃなくても耳障りの良い言葉じゃなくても、どうか相談者さんが救われ希望を持てる道が見つかりますように。
目下願うのは、相談者の“相談事の解決”それが最優先であるが、今回騒がれていて私も引っかかっているのは少し視点の違う話。ざっくり言うと感覚の話だ。それはとても個人的で局地的で、理解や共有できない人ももちろんいるだろう。だとしても、この件について私が一番“揺れた”ところであるし、基本的に感覚で生きている人間なので、「なんだかモヤっとした」が記憶を記録する原動力なのだ。前回書いた、“揚げ足取り”方式になりそうで、申し訳ない。攻撃性はありません。ただの感想です。改めて。
回答を読んで。冒頭は、正直言って気持ち悪かった。悪ふざけかなとも思った。14才という年齢を取り上げて、文の書き方に対して若いだのなんだの、うまく言えないけどハラスメント感というかからかわれてる感というか。なんかモヤるんですけど、うまく言語化できない。“つかみ”のつもりかもしれないけれど、何目線って思った。相談者への扱いが、14才の女性(未成熟の女性)なのか、中学生(子どもか幼稚か)なのか、よくわからないけど、いち人間の相談者を見下している態度に思えた。そして、こう感じたのは意外に少数派かもしれないことにさらに驚く。こちらが深読みしすぎなのかしら。相談請負人は優位なのか。それともどんな人間でも対等か。自身が大人として適切に導いてあげるという意思なのか。話を聴いてあげるよ、というスタンスなのか。
“つかみ”に若さや年相応について語られているが(仮)、相談者はそれを雑談として流したのだろうか。内容が深刻であればあるほど、違和感を感じないか。14才だしまだまだ子どもと思って上から目線になりがちかもしれない。その後の展開も、“わからなくて困っている”のだから、現状を噛み砕いて説明してあげようということかもしれない。けれども、相談の中身、状況を的確に書いているあたり、当人は恋愛と年齢の関係、避妊や虐待の問題について、よく考えられていて、あと少し知識が足りない、適切な選択肢が見当たらないというところまで来ているのではと私は感じた。つまり、並べられた文章は、「そうそう!」という相談者さんの同調を得るものではあるが、相談の解決や疑問の回答にはなっていないように思えたのである。
「人のことには口出ししない」は正論。私も大概のことは“当事者同士”“本人次第”だと思っている。だけどもその後の彼女の人生は?その友達の人生は?何もしないってことはただの停止じゃない、この先の人生がある以上、友達関係が続いてく以上、口出しできない状況をずっと継続するってことなのでは。我慢して、モヤモヤして、それをずっと続けてなさいって提案。あまりにも救いがないと思った。「あなたも友達も悪くない」に続いて「あなたも友達も若くて無力」って自覚を促す、何故にこうも簡単に絶望を突きつけるのかと。
親子関係について「それは大人が考えるべきこと」だと。確かにその通りだけど、子ども(相談者)にできることは何もないよって言われたら「私にできることは?」って自ら考えようとしてくれた意欲の行方は?責任感から解放されても、優しさから逃れられない場合は一体どうすればいいんだろう。「大人(親)に考えてもらうには」とか、具体的な解決策(心のざわざわを収める方法でもいい)の提示もないまま、ただ「大人が悪いです」と言われても、私だったら「だから?」ってなっちゃう。
「ひとの幸せを願うことが、余計なお世話になるかもしれない」ってすごいタイミングで意外な気づきが出てきたなと思って。時としてそういう事実はある。願いとは、現実とは、とても複雑で万人に願ったり叶ったりなわけない。あくまで推量だけど、ひとの幸せを願うって、別に自分の思う“彼らの幸せそうな姿”を相手に押し付けるって意味ではないでしょ。友達に、心から幸せって思ってほしいのでは。「逃避する気持ちわかる」って書いているのだから無理矢理引っ張り出すつもりもない、ただ純粋に行く末を心配する気持ちなのでは。個人の自由や幸せと倫理や人権を天秤にかけられるの?一体誰を守りたいのだろうと思った。こんなに悩んでいる時点で、もう相談者さんは十分に友達の味方でいて、大切に思っていて、友達間の幸せを願っていると思う。「人の事情に口出すべきじゃないのかな」なんて思いつけるほど、思慮深く、優しい。そんな人間に、なにこの予防線?と、私の頭ははてなでいっぱいになった。
悉く上から目線で“子ども扱い”しておいて、最後になって急に成長やら自立やら自己責任やら出てきたから目が点になった。「子どもには無理と諫められて、何もせずもし失敗したら自己責任なの!?謎!」って思った。自分の責任で自分自身が幸せになることはもちろん重要。それに気付くために、大人になるために、相談者もその友達も、ここがチャンスになるんじゃないの?突っぱねて終わり?謎は続く。
ぶっ通しで読み直しても、何を“返したかった”のだろう?となった。“相談”とはそもそも何だったのか。話が右往左往するくらいなら、相談の最後の質問「あなたならどうしますか?口出ししない方がいいですか」に対して、「自分なら何もしない、口出ししない方がいいと思う」とだけ答えれば、ひとまず“回答”にはなったんじゃないかと思う。おもしろくないって言われそうだけど。指示を仰げたことで相談者は少し気が楽になったかもしれない。(だといいけれど。)中身はともかく回答自体は得られたのだから満足したかもしれない。しかし“問題”の本質はそこじゃないと指摘が集まり、私も同感だった。この“相談”は質疑応答のコンテンツではなく、問題提起なのだと感じたから。とあるひとつの物語ではなく、今起こっている“問題のある”現実なのだと。
と、ここまでひとつひとつに噛み付きすぎてまたのびのびになってしまったので、区切って次回へ続けます。まとめになるかはわからない。何にしろ壮大な愚痴である。