ある炎上についての思考メモ。追記
前編 中編 後編 とだらだら話したことがあるのだが、今回はその追記ということで。収束後の後味の話。
炎上したことに焦ったのか、投稿者の許可前に記事を取り下げるという運営の動きに一瞬驚いたが、今までもちょこちょこ綻びが見える案件があったようだし、それ相当の状況になったのかもしれない。件の内容はさておき、その運営と投稿者の関係っていかがなものなの?ってちょっと思ったけれど。
運営が編集者としての役割をもっている以上、炎上に責任を感じるのは当然だと思うし、指摘されたことをごもっともだと受け取っていることに納得した。(学習しないの?と半ば嫌味な追指摘もされていたけれど)まさに“至らぬ点”なわけだから、読者の求める所にはメディアが到達していない、着地点の相違だった。個人の意見や価値観は、届くところに届いて響く人に響けばいい。“全員にOK”は在り得ない。それを踏まえてのメディアの在り方って、考えるほど線引きが難しい。1対1の個人間と、1対不特定多数では、やはり“取り扱い方法”が違うと思う。当事者たちのスタイルやポリシーを尊重しながら、コンテンツとして“見られ方”を意識する。そのバランスが偏ったとき、一方または双方との信頼関係が揺らぐ。インターネットを介していても人間関係なんだから、ちょっと構築しきれてなかったのかなと思う。成長中の間違いだからいくらでも取り返せる、とは思うけれど、反省して幕引きの流れがあんまり綺麗じゃなかったな。「やっぱり」とか「またか」と思わせる事態にきて、なおも印象削らせ続けている現状は、よくないなーと思うよ。
当事者間では事は円満に終わっているようだった。相談者も“安心”を得られたようだし、適切な援助もなされているらしい。そこに“納得”が生まれているため、回答者にとってそれは無事“相談に乗れた”ということだ。結果、よかった。引き続きどなたもの幸せを願うが、とりあえずよかった。当初、その回答を“正解”という気にはなれなかったが、今は“間違い”とも言い切れない。元々の私の思い、“本人がよければそれでよい”は叶っているのだから。とはいえ、だ。
相談者のことを第一に考え、要らぬプレッシャーを感じないように、できないことだけに引っ張られないように、優しく諭したというのが事実だそう。理解はできたが、それは個人間のカウンセリングの方法なのではと思う。それ自体は間違いではないし、相談者がそれに対して“ほっとした”なら対応は成功だった。それをメディアのコンテンツとして出したから、部外者が意見して加熱する事態になったのではないか。
「あの記事は“役立たない”」という人。「他人様の人生相談に口出すな」と諌める人。「文句言われたくないなら投稿するな」という人。「外野が何を言おうと本人がよければいいんだ」と流す人。「公開されているのだから誰しも意見する権利がある」「相談者のみの納得が欲しいなら、その子に直接説いてあげればいい」という人。「回答者はカウンセラーではないのだから、あくまで読み物として記事を書いているにすぎない」という人。「人生相談をコンテンツ化するな」と怒る人。わかる、それぞれの言いたいことわかるよ...。
回答者は相談者の心を気にかけるあまり、読者への配慮を欠いていたと述べた。では相談者を多少動揺させても、辛辣に切り込むべきだった?―違うと思う。開き直って、これは相談者のためだけにしていることなのだから、誰が読もうが意見しようが関係ないと言い切る?―それもたぶん違う。「読者に配慮なんていりません気にしないで」と言っている人も見かけたけれど、当事者間はもちろんだが、筆者と読者も人間関係なんだから、いや配慮はいるだろ、と私は思う。その“配慮”がどういうことなのか、バランスの取り方が実に難しいということだ。いやぁあぁぁ...。この件で正直私には“敬遠”?する気持ちが生まれた。この事象そのものに対して。登場人物が増えるほど読まなければいけない空気が増えるのツラぁ...。人生相談を公開でやるポテンシャル、そんなの私には無いし尊敬するけど、コンテンツ化は公開前の当事者間の合意だけでは“成立”しないんだなぁと感じた。受け手あってのメディアだしね。誰かに真心を尽くしたくば、一期一会に覚悟を決めろってことなのかしらね。