ある炎上についての思考メモ。後編
前 中 引き続き。いよいよ終わり。というか終わろう。ぐちぐち長すぎた。
世の中に溢れかえる様々な文章。顕在するコンテンツ。あれは確かに悩み相談だった。それに対応する返答だった。相談者が満足すれば終わり。雑談として“ひとつ記事が書けた”くらいの感覚で、それで両者がOKなら、この件は“成立”なのかもしれない。優しい言葉を紡ぐ、誰も傷つけない、ちゃんと話聴いてるよという姿勢、それで救われる人も確かにいる。私もそう。今までに感銘を受けた記事もある。けれども読んだ人間がざわつき、炎上し、運営が記事を取り下げる、これは一体どういう事態なのかを考える。「できることは何もない」と目を伏せたその向こうに、いくつかの人生が絡み合って、哀しい現実が潜んでいて、まだ誰も救われていない。話を聴くことによって、もう無関係ではないのに、“当事者”は何も思わないのだろうか。せめて相談者のモヤモヤが少しでも晴れるように、かけてあげる言葉が他にもなかったのか。
ご意見の中に、回答に具体性を求めるものもあった。「相手を幼いと思うなら、大人である自身がやるべきことがあるのではないか。“語り”に終わらず“導き”を。大人の役目というのなら、彼女を通じてでも大人に働きかけを。」「社会を一気に変えることはできない。だからひとつひとつの案件、ひとりひとりの人生に向き合うのだ。目の前の彼女を救いたくば、ひとつでも多くの選択肢を示してあげること。」「虐待や暴行からひとりの人間を守る具体的な行動を紹介、提案する。それは相談者のみならず読者らの知識となり、いつか誰かの心を救うきっかけになる。“悩み相談”を世の中に公開する意義を求めて。」私自身が感じたモヤモヤを言語化してくれる人がたくさんいて、少し安堵した。
単純に、心配している。知ってしまったから、どうか救われてほしい。うんうん、社会とはそういうものでしょう。年齢や性別や倫理で、ぐちゃぐちゃで残酷で。若くて未熟でどこまでも他人な“人間”たち、あなたも私も無力だよ、そうわかってる。大切なものを大切にしたい。それは元から思ってる。そうだよね。だけども足りない。何か足りない。何が足りない?―どうすれば本当の意味で、実践的に、友だちの味方になれる?
どうして自分に訊くの?と本気で思っていても、窓口を設けている以上、届いた声には真摯に向き合うべきだと思っている。本気で答える気がない、のらりくらりするつもりなら最前に掲げて、他人の貴重な時間や労力を奪わないようにしなければ。話を聴くことで自分の時間を他人に割いているように、話をする方も自分の労力を誰に払うかわざわざ選んでいる。だから雑談をしたいのか、問題解決をしたいのか、ちゃんと見極めなけりゃならない。
文章を上手く書けるのはすごいことだ。私はいつまでたってもまとめる能力が成長しないし、よくできたと思ったことがない。なんとか書き上げた、それが限度である。連載を持つこともすごい。継続することも才能であり努力だ。長く人に寄り添い続けるのはコミュニケーションとしても骨が折れる。感情を揺さぶり、世論を揺さぶり、それは魅力的な表現価値だ。嫌味なく、実力に対して、そう思う。
影響力に、知名度に、雰囲気に、イメージに、期待しすぎた結果かもしれない。純粋な目でみれば、そこまでの案件じゃないかもしれない。とある成人男性のちょっとしたミステイク。世の中の幾億の人間のたったひとり、誰も彼も。たかがひとつの歯車、されどひとつの歯車。あとほんの少しだけ救いがほしかった。救える人だと思っていたし、救われてほしいと思った。これまでも、この件も、これからも。常々きれいな世界が見たーいなんて言っている私のただのワガママかもしれないが。意識高い系なんて揶揄されたくはないな。知ってしまった存在の幸せをただ願っているだけ。
実に長々と書いてきたけれども、つまりは残念だったという感想と好転を見られなかった愚痴なのだ。最終に至るまでのひとつひとつの感情の動きを、単に記録しておくだけでこんなに疲れる。やっぱり私には文才がないなぁ。炎上は毎日至るところで起こっていて、きっと避けようと思っても避けられない。火種が自分とも限らないしね。流動的なそれに生きてる!人間!って感じがするし、今後も世界のうねりを期待します。だけどもやっぱり平和がいいねー。好意的に思っている人が叩かれるとそりゃあ傷つくし、ミスを許さないって不寛容な社会にもムカっとくる。何言ってんのォとツッコミのつもりでも辛辣だと攻撃的に受け取られるし、難しいね。
...もしここまで読んでくれた人がいらっしゃるならば、どうもありがとう。あんま無理せんでええよ。お大事にね。