こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

誰を守りたい?それとも救われたい?2

(つづき)

 

私は悪意なく“味方”を名乗りたい。それが自分の本心だと信じたい。それでも“自己防衛して”という思いは消えてはいない。そこには自分の“経験からの裏付け”が隠れていると思う。私も過去の出来事に対して「自分にも落ち度がある」「世の中をなめてかかっていた」という自覚を今現在も持っているからだ。「世の中性善説だけではやってけねーよ」と当時も今も思っている。「世知辛いね。悔しいね。腹立つね。」とも。だからこそ、誰にも加害者にも被害者にもなってほしくない。

件の加害者側の男性を私は昔から応援していたし、事件当時もうほんとに腹が立った。「何やってんだよ!完全に間違えてる。ずっとかっこいいあんちゃんでいてくれよ...」とテレビに向かって言った。ファン心から擁護する、なんて気も起らず、仕方がないとも全く思えなかった。 被害者側の女性については「ショックだよね。自分を責めなくていいよ」と同情の気持ちもありつつ、「でももうちょっとやりようがあったのでは」「仕事人として自分の行動に責任は持つべき」と思ってしまった。正直、今も少し思っている。

「あなたは何も悪くない」と彼女を“被害者”として守りたい気持ちと、「未成年であっても社会人としての自覚に欠け、一人間として自己責任を免れない」と原因や理由を追及し続けたい気持ち。両方ある。どう考えても「やらかした側が悪い」というのに、“被害者側の責任”を放棄できない。その考え方がもしかしたら“二次被害”に繋がるかも、と理解してなお、未だに中途半端な立ち位置にいる。私は、ともすると過去の自分と他者の事例を混同して考えているのかも。“ちゃんとしてこなかった”自分を今でも責め、“被害者”に“投影”してそれを許せないでいる。それこそ未熟を晒しているようで恥ずかしいことだが、どうも割り切れないのだ。「隙を見せなければそんなことにならなかったよ」と頭の中で誰かが囁く。「私がどんな人間かは関係ない、やらかした奴が悪いんじゃん!」と別の誰かが言い返す。脳内論争。「どの被害者も、そして私も、なぁんにも悪いとこなんてない!」と開き直れないほど、こんなにも、未だ何かに囚われている。

自身の過去発言を省みて「傷ついた誰かをさらに傷つける善意(好意)の面した凶器」は自分の手の中にもあることを知った。自分の思考がもし誰かをさらに追い込んでいるとしたら、それは謝りたい。ごめん。それでも、当事者みんな救われてほしいと思っているし、“真実”を知りたいという身勝手な欲もある。そもそも人を裁く立場ではないのだから、どんな持論を持っていようと一方通行にして行き止まりだ。自分の知りたがってる“真実”とは何なのか。“納得する未来”など来ないことをわかっていてなお、考えてしまう。

 

(つづく)

 

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誰を守りたい?それとも救われたい?1

数年前、とある成人男性芸能人と未成年女性芸能人のトラブルについて、SNSでつらつら持論を吐いたことがある。最近その内容を顧みて心境の変化があった。というか反省・訂正したい気持ちになった。そして解放されたい気持ちにも。ジェンダーや人間社会について、考える機会が昔より増えたから、ということかもしれない。

加害者と被害者がいて、当然責められるべきは加害者なのだが、内容によっては「被害者にも多少なりとも落ち度が」という風潮があり、私はその一部に賛同していた。実際には、大なり小なり事実として“落ち度”とやらが存在する場合も、本当に全く無い場合も、ある。それらは個々の事例によって異なる。例えば、最大限の予防線・警戒心・あらゆる無駄を省いた必要最低限の人間関係に努めるならば、落ち度0%に限りなく近づけるかもしれない。そこまでやってても“ほぼ”、まして人間なら完全無欠ともいかず油断もあるだろう、ということで「100対0ではない。被害側にもなんらかの落ち度は(きっと)ある(はずだ)」という意見は成立していた。...ように見えていた。少なくともあの事件に関しては、私もそういう印象を受けていたのだ。「どれもこれも一理ある」と思いながら人々の議論を見ていた。それでいて持論を展開したときは、あくまで私は被害者の味方のつもりで発していた。

無条件で加害者が断然悪い!とはいいつつも、被害者側(当事者、そしてこの先被害者になり得る全ての人)に“自衛”を願った。自衛の定義も人それぞれだと思うのだが、私は個人的に(彼女らを年代的にかわいく思うあまり)「もっと自分を大事にして」「誰かに守ってもらうんじゃない、自分を守れるのは自分よ」という思いから、“自己防衛して”と願った。実際、私の呟きなんてネットの海の砂粒以下だし、当事者に届くことはないのだけれど、その頃のプライベートな心情も相俟って、妙にシスターフッドを感じての発言だった。

しかし。今になって思えば、それが正しい“鐘の鳴らし方”だったのかはわからない。結果的に被害者となってしまった人を、さらに傷つける意見ではないか。既に自分を責めている子に追い打ちをかけるような言い方ではないか。当時の自分の解釈に不安を覚えた。もし、「あなたの為を思って」なんて言いながら“味方”を名乗り、その前提で“落ち度を自覚”させ、指摘して扇動しているのだとしたら、なんて質が悪い。そうでなくても、“幸せであれ”と願ったことが、相手にとっては筋違いの望み、善意の凶器なのかもしれない。本人に届いていないのだからいいではないか、という問題ではない。私の意識の問題だ。あの頃から今、私の何かが変化しているんだと気づいた。

 

(つづく)

 

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kiss and cry and cry

15歳の頃を思い返すと...私の場合、もう残りの人生あと半分だ、と思っていた。「いつの間にかここに来てしまったなぁ」「小学校も中学校も、“それなり”にやってこれたけれど、特筆すべき“私”はないなぁ」学校へ行っても行かなくても、私の体調はあまり変わらなかったし、心情の変化も自分ではわからなかった。“そうしたくない”ことには頑固だったが、“そうしたい”こともあまりなかった。周りと比較して、自分のことを「一歩先んじている」と思えば「いやいやいやいや」とノリツッコミが出るし、「みんなと同じくらいだ」と言われれば現状が違いすぎてハテナしか出ない。「ぼんやりしている間に出遅れてる」と思えば納得はするが、「だからどうした」と。それが判明したところで、どうしようもない。

少し焦ってはいたかもしれない。15歳期間に限らず、“何を”という目標も目的もないまま、16の間に、17の間に、18の間に...と、年々何者でもない自分に苛立ち、そして諦め続けてきた感じだ。今も似たような気持ちや思考回路があるとすると、人間あんまり成長してないようにも思えるが、あの頃の私はやっぱりあの頃だけの姿で、握ってる残り時間も、言い訳も、本質も、今とは別物なんだろうなぁ。

今日テレビで、15歳の少女が号泣する姿を見て、心が痛すぎた。本当に、まだ子供で、華奢な少女で、本能的な闘争心と人間らしい繊細さで、硝子が鋭く脆く崩れていくような姿に、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。どのような姿が真の“自立”といえるのか、それは人によって様々だと思う。お金を稼いだらとか独りで世間を渡れたらとか、“一丁前”の概念はそれぞれ違う。彼女自身が自分を一人前の大人だと思っているならそれはそれでいいと思う。それによって一人の人間としての尊厳も守られるならなおさらだ。この私でさえ「もう15年も生きているのよ」と思っていた。「1年1年が貴重だというなら、15年もこの世にいることを許されているって“長い”。だからもう半分来た、と思う」と本気で言っていたのだから。でもそれは当時の話。だんだんとその“リミット”の意味が薄れてきて、今は「ああ、15歳ってやっぱりまだ“少女”なんだ」とこの度の映像を観て、思った。

確実な“個”、己は己だけだという“自覚”は生きる上できっと重要だ。勝負の世界では、“揺らがなさ”は強さと云えるだろうし、自分をコントロールするのも破棄するのも自分自身だ。〇歳だからとか大人だからとかじゃない、一人の人間として、演者として、責任を持っている。彼女らを見ているとそんな風に伝わってくるし、理解もできる。だからこそ、だとしても、彼女を不憫に思った。子供だから、女性だから、守るべきと言ってるんじゃない。か弱いとか頼りないと評価しているわけでもない。ただ、そこにある状況が、滲み出てくる感情が、その少女を“表現”するのに、とても“似合ってない”、そう感じた。

 

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