こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

気まぐれリアリスティック

気まぐれに、某ニュースサイトの記事にコメントなどしてみるのだが、なんというか...あれは新たな自傷行為だなと思った。自分の意見に対して少なからずBADや批判(否定)コメがつくことは、当然必然とわかっていても少し傷つく。削られる。見なきゃいい、なんなら最初からコメントなんかしなきゃいいってのはごもっともなんだけど。もちろん、それらの“反対意見”が“全て真っ当”だとは1ミリも思っていないし、「理解し合えない人は一定数いるもんね~」とはあらかじめ思っているつもりだ。聞けば、内容を全く見ずにBADを押しまくることを興に思う人や他人を叩くことで悦に入っている人なんてのもいるらしい。だから、BADを全て鵜呑みにする気はさらさらないんだけどね。とはいえ、やっぱり人は否定されると悲しい悔しいと思うのがサガだし、私もネガティブの方に吞まれがちだから、他者の言葉や感情を“受け取る”行為はリスキーだ。「こんなに否定されるなんて...自分はダメな人間なんだ...」とまで極端にはいかないけど、自分が受け入れやすい・傷つくのがわかってて、それでも己を叩きの餌として置いてくるならば、それはやはり心の自傷じゃない?と思った。

実状でいうと、私の気まぐれぽろっとな意見は、取り立てられるでもなく炎上するでもなく、割とスルーされてきたと思う。BADにはそれなりに傷つくという話だが、その数が1だろうが100だろうが、否定されたという事実は同じで、一瞬ドキッとしてしまうことも変わらない。しかしながら、大概はGOODを頂くことの方が多く、ざっくり見てBADの20倍以上であった。その点においては、気持ちが救われている。これもまた丸々鵜呑みにするわけにはいかないが、多少は“私以外の誰か”が私の意見に賛同してくれたということである。「ああ、私はまだ一般大衆と同調できる感情を持ち合わせているんだな」と、そういうとこでも安心する。

コメントで、自分の意見が正しいと言い張るつもりも、突き付けるつもりもない。ただの意見交換だ。BADを付けまわって遊ぶ人に賛同はしないけど、そういう人間もいるのね、と思う。だから評価の数で一喜一憂してしまったとしても、それに囚われ続ける必要はないよなぁ。自分から“傷つきにいく”のは勝手だけど、言うも言わないも見るも見ないも自己責任だもんな。私は何故かついギリギリのとこを攻める癖があって、微妙な精神状態の時こそそういうリスキーなことを急に思い立ったりするんだけど、自制しないとな、と思った。自制は自衛なんだと。というわけで、これからも気まぐれに、気まぐれらしく、さら~として忘れるようにしようっと。

 

コメント 自傷 意思疎通 わかりあえない 気まぐれAmazonで検索

吐くな晒すなってそんな殺生な~

普段から、特に求められてもいない“考え事”を垂れ流しておいて何だが、プライベートを必要項以外はあまり出さないでおこうと軽く誓っていた。しかし、私の思い浮かべることはリアルの私と決して切り離せない所にあって、私の感情や綴る文字群は架空の物語だけ、というわけにはいかない。現実に我が身に起こったこととその時の気持ちを書き留めておくというのも、それはそれで“脳内漏洩”と言えるのではなかろうか。

と、考えてみたので多少、これからそんなのが増えると思う。まぁ今までもやってきたことだけどね。「あまり自己紹介をしたくない」「なるべくミステリアス」を望みながら「ありのままでいたい」と願う。もちろん個人情報は晒さないけど、それでも「私が何たるか」を知ってほしいという...わがままだよね。でも書きたい時は書きたいから書くわ。鬱屈した気持ちは繰り返すため、同じことを何回も書くかもしれない。まぁそれもここまでもし読む人がいたならば慣れっこだよねきっと。いろんなフラッシュバックのはけ口が無いと思ってきたけれど、ここに吐けばいいんだって思った。誰かを傷つける意図はないし、確定断定されないように“曖昧”を心がける。だから、虚構も織り交ぜる。よく言えば脚色ね。嘘言って誰かを騙すつもりはないけど、半透明にする。それは本物のプライベートを守る配慮だと思っているし、知る側にもできればそう思ってほしいな。お話も、私自身に対しても、見ず知らずの人に何かを特定断定されるの好きじゃない。「勝手言ってろよ。いや何も言うなよ。」って感じ。だから実際に私に会って確認するのじゃない限り、真正面から信じなくていいよ。大丈夫、私もわりと信じていないから。

という、特に明確な変更点のない、自己満足の誓い。ただの思いつきだな。発信には統一性を持たせた方がいいとは思ってるんだけど、なかなか本人がとっ散らかってる人間なのでね...主張も体裁も流動的であるとは自覚してる。結局本質的には何も変わらず、成長も見られないのだけど、こうして誰の為でもないアテンションを出して独りでわーわー言っているのは、もう悪い癖だと思って下サイ。今回の事の発端は、とあるフラッシュバック。間違いなく。なかなか消せない過去に、急に登場されてビビってる、お化け屋敷みたいな心境になったから、である。叫べば単純にすっきりするだろうけど、整理しながら叫ぶ場所を、「あ、用意されてないなら自分で設ければええやん」と思った次第だ。なに、元々吐き出す場所は持っていた、ここ、心情吐露に作ったんだった。なので今後とも何卒。

 

ちなみに。今更ですが、記事のタイトルに毎回深い意味はありませぬ。ノリと語感でつけてます。意味不明でも気にしないでね。

 

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予想通りに予想外

過去のどの時期を思い出しても、そこから先がどうなるか、今現在がこんな感じであることを予想だにしていなかった。元々、未来予想をしたり将来の目標を立てたりはあまりしてこなかった人間ではあるが。何となく思っていたその時点での近い未来、例えば数年後の妄想も、何一つその通りになったことはない。小学生の頃の、何の根拠もないが表明した夢は叶えられると思っていた純粋な私はいつの間にか消えて、来年のことすら「それはお約束できません」と初っ端から言うような人間に育った。「夢を持つことは大切」とは思ってきたが、叶わない事実や自分の無力さを突き付けられることに当然恐怖があったし、そもそも先々の目標を立てること自体が苦手だ。順序やバランスにこだわれば、本来の内容はそっちのけになる。あれこれ妄想を広げれば、それはもう私のフィールド外の全く別世界の物語のようだ。先々をネガティブに妄想して心配しても、それが良いように転べば、「ああ予想外になってよかった」となることもある。目標や夢は基本ポジティブなものをそう呼ぶでしょう?それが覆るとなると、「予想外に嫌なことになった」そう思わされるのが嫌で、あまり期待を膨らませたくない...。

ただ、あくまではっきりとは思い描いていなかったという話で、それなりに、ぽややんと抱いていた未来予想図はあったのだと思う。それと無理矢理比較すると、過去のある時点からのどの節目もどんな過程も、そして今も、考えていた通りにはなっていないなぁと思ったのだった。今思えば妄想逞しく、いや絶対無理やろそれは的なことを考えている時期もあったのだが、それはそれで人間味とか愛嬌があったのかもしれない。「真面目に進学してまともな仕事に就いて普通に幸せになる」...今だったら自分でも「は?何やその言い方」とか言っちゃいそうな文章だが、当時はそれが夢や目標だと胸を張って然りな時代だし環境だし私の人間としての器の程度だったのだ。心から「それが私の夢」だと思っていたかというと、それは別の話。実際はほとんど何も考えてなかったというのが正解かもしれない。「だって目標を立てるとそれを達成できたとかできなかったとか、そういうことで一喜一憂、右往左往させられるでしょう。そんなんしんどいから、ならもう最初から未来像なんか思い浮かべないほうがええの。その方が心が平穏なの。」屁理屈だが、今でも少し、その気持ちある。子供の頃の私へ、その気持ち今でもわかるで、大人の私より。

「人生予想通りに行くほうが稀」っていうのは確かにそうだと思う。でも皆そんなに耐えられるものなのね、予想が何度も裏切られることに。その結果の良し悪しは関係なく、「もしも」「もしかしたら」を考えることは、ワクワクもするけれどものすごいエネルギーを消費する。私はその耐性が、持久力が少ないんだと思う。だから元より“予想しない”“理想を追わない”ことに逃げている。リスクもないけど刺激もない選択、自分自身のことだって、賛成も反対も未だに堂々と掲げられない。

 

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